Spoken Words
Collected Poems 1985-2000

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2000.12に販売終了

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ライナー 増渕俊之

本作『Spoken Words』を構成する最初のブロックは、1985年5月に発表されたカセットブック『ELECTRIC GARDEN』からのトラック【(1)〜(7)】である。

 当時はカセットブックという形態自体が斬新な時代のことだったが、小学館から刊行されたこの作品はA4変形版のハードカバー、中身は2冊のビジュアルブックとカセットテープという豪華な仕様となり、佐野元春ファンならずとも“新たなメディア・ミックス”の登場に目を奪われたものだった。

 驚きは、その佇まいだけではない。佐野が掲げた“バーチャル/ビジュアル/ソニック”というテーマの最後のエレメント=カセットに収録されたものは、聴きなじみのある彼のポップ・ミュージックではなく、DMXやEmulatorといった当時最新のデジタル楽器の演奏をバックにした“スポークンワーズ”だったのである。

 こうした特異な内容にも関わらず『ELECTRIC GARDEN』は10万部を超えるヒットとなり、多くのユーザーは既存の“詩集”というイメージから大きく逸脱した“ポエトリー表現”への興味を宿すことになった。とりもなおさず、それが文章表現を主体にする作家からではなく、ロック・アーティストである佐野から投げつけられたアプローチであったのは、非常にエポック・メイキングな出来事だった。

 それでは、この作品は一体どのような経緯で制作されたのか? そもそも話は、佐野が単身ニューヨークでの生活を送っていた頃に遡る。

 80年のレコード・デビューから3年、さらに創作的な刺激を求めて渡ったマンハッタンでの1年間の暮らしは、彼に多くの見知らぬ新しい文化を体験させた。あらゆる人種が剥き出しにするエネルギー。音楽制作の現場を担う若々しい才能の持ち主たちとの出会い。そしてストリートで萌芽の気配を放っていたヒップホップの衝撃……。こうした当時のニューヨークの息吹をたっぷり吸い込みながら、佐野はアルバム『VISITORS』を制作することになる。

 と同時に、彼は街のカフェやライブハウスなどで日常的に行われている“スポークンワーズ”の現場にも触れ、そこに息づくオーラルな言葉の表現を味わっていた。

 もともと詩というと、学校の教科書で習うような勉強のための文章といった観を持つ人は多いだろう。佐野はしかし、その枠組みから外れてしまう言葉に興味があることを幼い頃から感じていた。たとえばジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグのように、より自由で奔放な文章表現を目指したビートニクスの著作に耽溺していた彼は、詩作とは自分の感情を短い言葉で伝達できる、誰にでも可能なカジュアルな表現方法であると信じていた。

 ニューヨークのポエトリー・シーンに出会い、佐野はその見方が正しく、詩というものは口から発することで伝わるものがあるということを認識する。それはつまり、活字とは別の回路から心に定着させる言葉の力である。彼はその表現の楽しみを知らしめたいと思った。そして『VISITORS』の制作が終了後、日本に帰国してから『ELECTRIC GARDEN』の制作にとりかかったのである。84年10月から翌年5月にかけて行われたライブツアー〈VISITORS TOUR〉の最中のことだった。

 佐野は当時のことを振り返り、このように話す。

「頭の中にあったのはアルチュール・ランボウの言葉だった。言葉を路上に引っぱり出そう――。カルチェラタンの時代に、若きランボウがそう言った意図を僕なりに感じるものがあった。大人たちから押しつけられる形骸化した詩をもう一度路上に引っ張り出し、再構成して、そこに音楽をつけたらどうなるだろう? そうしたらみんなどう感じてくれるか、素朴な好奇心からすべては始まった」

 ここで朗読されている詩は、すべてニューヨークでの生活の中で書かれたものだ。たとえば「52nd Ave.」のように具体的なロケーションを書きつけた作品あり、または「N.Y.C 1983〜1984」のように1年間の生活を1ヵ月ごとに区切り、そのエピソードを書きつけた作品あり。それらはみな、街の躍動に触れたことへの喜びや驚きが描かれた、まさにマンハッタンでの日々のスケッチと言える。

 レコーディングの作業は設立したばかりのプライベート・スタジオで数日のうちに進められた。メンバーは当時のバック・バンド「ザ・ハートランド」からキーボーディストの西本明と、エンジニアの飯塚俊之。これに佐野を加えた3人というミニマムな陣容となっている。

 時代はまさに、レコーディング技術の革命をうながしている頃でもあった。基本となるアイデアを前述したデジタル楽器で佐野が演奏し、デモ・トラックに詩のリーディングを乗せ、それをもとにギターやパーカッションといった生楽器のダビングを重ねていく……。それは大掛かりなスタジオで制作されるものではない、いわばホーム・レコーディングへの足掛かりとも言えるものだった。

 今回、本作への収録にあたり、これらの楽曲には新たにベースとドラムのサンプル・ループが加えられた。こうしたリミックスが施されたことにより、コンテンポラリーなグルーヴに生まれ変わったサウンドに言葉の“瑞々しさ”がオリジナル以上に浮き立っている。それはとりもなおさず、当時の佐野のアイデアが陳腐なものでなく、現在も有効なものだということを示しているようだ。

 さて、この『ELECTRIC GARDEN』が発表された翌年、佐野はインディペンデント・レーベル〈M's Factory〉の運営を開始する。彼の音楽を主体に、既存の形態にとらわれない自由な創作物を送り出す――という理念があった。そのうちのひとつ〈東京マンスリー〉のような異例のライブ企画、または雑誌『THIS』の第2期発行と多岐に渡る活動の渦中にあった86年7月。佐野は同レーベルから“スポークンワーズ作品”の続篇となる『ELECTRIC GARDEN #2』を発表した。

 本作の第2ブロックとなるこれらのトラック【(8)〜(10)】は、前作同様、カセットテープに収録され、数葉のポストカードと小冊子と共にボックス仕様のパッケージとなって提出された。その佇まいは前作に比べて簡素なものだったが、エレガントな作風が全体のトーンに奥行きを与えている。楽曲制作のメンバーはふたたび西本明と飯塚俊之。レコーディングは86年2月のことだった。

 この時期の佐野はニューアルバムの制作を直前にして、パリ、ベルリン、ロンドン、ニューヨークといった都市を飛び回っていた頃である。世界各地で同時多発的に新しいユース・カルチャーのほとばしりが見られ、彼は目に見えない文化の“インターエクスチェンジ”に夢中になっていた。佐野はさまざまな国のクリエイターと交流しながら次なる音楽表現を模索していたが、そうした生活の中から「ある9月の朝」のように視野の広い世界観のトラックが生まれることになる。





曲目

01. 再び路上で
02. Sleep
03. 52nd Ave.
04. リアルな現実 本気の現実 Part1 & Part2
05. 夜を散らかして
06. N.Y.C.1983 - 1984
07. Dovanna
08. ある9月の朝
09. 完全な製品
10. ...までに
11. 僕は愚かな人類の子供だった
  -Dedicated to the Astroboy
12. フルーツ -夏が来るまでには
13. 廃虚の街 (ライヴ)
14 .ポップチルドレン (ライヴ)
15. 自由は積み重ねられていく (ライヴ)


All words and music written by Motoharu Sano



 また、佐野は85年から86年の年越しをマンハッタンで過ごした。大晦日の深夜、イースト・ビレッジのセント・マークス教会で開催されるポエトリー・ベネフィットを訪れた彼は、その会場でアレン・ギンズバーグに邂逅する。短い時間ながら2人の対話は充実したものとなり、ギンズバーグは「時代によって呼び名は変わるが“ビート”は生き続ける。それはボヘミアンとして生きることだ」と発言。その言葉から得た精神を継承するように、佐野は“遅れてきたボヘミアンが辿り着いたカフェ”をテーマにしたアルバム『Cafe Bohemia』を86年12月に発表するに至った。

 これ以降『ELECTRIC GARDEN』と表題されたパッケージは発表 されていない。それはポエトリーへの興味がなくなったというわ けではなく、創作の中で“ポップ・ミュージック/スポークンワ ーズ”と表現の形態を区別する必要がなくなったから――と佐野 は説明する。たとえば、その後のアルバム『ナポレオンフィッシ ュと泳ぐ日』の「ブルーの見解」や『Sweet 16』の「廃虚の 街」のように、メロディーに縛られることなくリーディング・ス
タイルのボーカルがとられた楽曲も、通常のアルバムに溶け込み ながらリスナーの耳に浸透を見せ始めたからである。

 本作の第3ブロックでは、そうした“スポークンワーズ”傾向の強い作品の中から代表2曲が収録された。まず(11)の「僕は愚かな人間の子供だった」は99年3月にリリースされた手塚治虫トリビュート・アルバムへの参加曲。ここでは若手サウンド・クリエイターCMJKによるリミックス・バージョンが採用されている。また(12)の「フルーツ-夏が来るまでには」は96年のアルバム『FRUITS』より。いずれも、時を経て進化し続けるレコーデ
ィング技術に裏打ちされたサウンドに彩られながら、佐野のリー ディングがより細やかで自然なものとして昇華されていることに 注目したい。

 そして本作のラストのブロックを占めるトラック【(13)〜(15)】は、95年12月、渋谷パルコ・スペース3にて開催された
ポエトリー・イベント〈BEAT-TITUDE〉におけるライブ音源であ る。雑誌『THIS』の第3期発刊のタイミングに合わせて企画された当イベントは、講演やフィルム上映、実際のパフォーマンスを 通じて、現在なお若者たちに影響の強いビート・カルチャーを照 査するものだった。佐野はプロデュースとナビゲーターの役目を 担い、同時にジャック・ケルアックとの親交が厚かったアーティ スト、デビッド・アムラムとのセッションが用意された。

 演奏はアムラムによるフルートとピアノ、これにパーカッショ ニストの越智兄弟が参加し、佐野は3篇の詩をリーディングした。まず最初は前述『Sweet 16』の「廃虚の街」。続いて同じく『Sweet 16』から「ポップチルドレン」。そして最後は『THIS』に発表されていた「自由は積み重ねられていく」。どれ
もジャズのインプロビゼーション的な演奏が厳かな緊張感を与え つつ、佐野のオーラルな表現が見事に「場」の雰囲気を支配して いるのが伝わるだろう。

 リハーサルは本番直前の1回だけで、ほとんどスポンティニアスなコラボレーションであったにも関わらず表情豊かなセッショ
ンとなったのは、特にアムラムの技量によるところが大きい。連 綿と継承されるビートの現場の観察者であり、インサイダーとし ても重要な役割を果たしてきたアムラムとの邂逅は、ギンズバー グに続いて佐野に「最良の精神」を感じさせるに十分なものだっ た。



 同時に注目したいのは、ライブという行為が言葉の持つ“間” を敏感にオーディエンスに伝えていることだ。即興演奏と絡み合 いながら繰りだされる言葉と息づかいは、まさしく詩を解き放つ ことに成功している。そうした意味において、これらのトラック は“スポークンワーズ”の本質を知らしめる絶好のモデルと言え よう。

 さて、最後になったが、ここで“スポークンワーズ”の定義に ついて探りたい。そのためには、以下の佐野の発言を読んでいた だくことが最善の道であろう。

「僕はなぜ詩を書くのか? それは書いた詩によって誰かとコミ ュニケートしたいという気持ちと同時に、詩を書くという行為自 体が僕の感情をコントロールしてくれるからだ。たとえば自分の 中から一篇の詩が生まれる。僕はそれを口に出してみたくなる。 しかし、それだけではない。その朗読に沿うサウンド・トラック を自分で編集してみたくなる。そこにある言葉とメロディー、そ してグルーヴといったものは、どれを取り外しても成立せず、ひ とつのものに融合している。これが僕の“スポークンワーズ”と いう表現の理想的な形である。僕はその実験を、この先も続けて いくだろう」

 彼の言う「実験」の最新バージョンは、2000年7月に行われ たインターネット・ライブ〈Summer of 2000〉で披露された。 KYON、そして里村美和のアコースティック演奏をバックにリーデ ィングされたのは新旧の詩作6篇。映像と共にネットを通じてリ スナーの端末に届けられた言葉は、従来のメディアでは到達でき なかった“個対個”の関係性を深めることに成功した。

 そして佐野のビジョンはさらに先を向いている。彼は本作のリ リースを機に、まもなく“スポークンワーズ”専門のレーベルを 始動させようとしているという。詳しいプランについては近い将 来アナウンスされる予定だが、ネット・コミュニケーションを最 大限に利用した内外のアーティストとの交流を視野に入れた活動 になるはずだ。一方通行の“詩の朗読”ではなく、相互作用の起 こる言葉の交歓へ――『ELECTRIC GARDEN』に始まった15年間の 意欲的な試みは未だ尽きることがないようである。



プロフィール/増渕俊之(ますぶちとしゆき)

11965年生。マガジン「SWITCH」編集部、また、佐野元春編集責任マガジン「THIS」編集者を経て、現在、フリーランスの編集プロデューサーとして活動。インタビュアー/コラムニストとしての豊富なキャリアを生かし、文学、音楽、ユース・カルチャー分野全般にわたるジャーナルな活動を続けている。





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