特集=佐野元春『自由の岸辺』が照らし出す現在

感傷的ではない理由から

Mitsuhiko Kawase

 「Good Times & Bad Times」は、君にとってたいへん大事な歌だ。30年以上の長きにわたって、感傷的ではない理由から、君はそれを聴き続けてきた。その歌が新たに録音され、このアルバムの最終トラックに収められている。

 君がこの歌を愛しているのは、かつて君の身辺にいた誰かを懐かしく思い出すからではない。かつて君の身辺にいた誰とも、この歌はなんら関係していない。君がこの歌を愛しているのは、その抽象性ゆえだ。抽象性とは、普遍性と言ってもいい。

 歌を書くにあたって、目の前の現実を一旦抽象化し、可能な限り冷静な視点からそれを捉えなおすという作業を、10代の佐野は、おそらく本能的におこなった。自分のことを書くのではない。自分自身の喜怒哀楽といった感情は排し、乾いた簡潔な描写を重ねていく。大事なのは物語だ。書かれた歌にすべてがある。

 夜の街の描写から、物語は始まっていく。雨の夜だ。主人公の男は、街路樹に寄せて彼の車を停めている。パーキング・メーターが雨に打たれている。バーのネオン・サインが、濡れた街路に滲んでいる。ダッシュボードの時計は、真夜中過ぎを示している。男には、しかしいくあてはどこにもない。

 エンジン・フードの下ではシヴォレーの350が、低く鼓動している。時折、ワイパーが雨滴をぬぐう。リアヴュー・ミラーに映った自分を、彼は見る。いいさ、と自分に言い聞かせるかのように彼は言う。いい時と良くない時とを、これからも繰り返していく。そしてどうにかこの街で生き延びていく。男はヘッドライトをオンにする。セレクタをドライヴにいれ、ゆっくりと車を発進させる。窓の外を、街灯りが流れていく。

 都市を背景に、そこに暮らす彼や彼女を、どれくらいの距離から、どんなふうに描写するか。デビューから現在に至るまで、佐野の関心事は、常にそれだったと言っていい。「Good Times & Bad Times」では、その切実さにおいて、主人公と佐野はきわめて近い距離にいたのではなかったか。ひとつひとつのラインを、身を挺するかのように佐野は歌う。

 かつてとおなじスキャット・ソロが、君の記憶を更新する。柔らかな意思をたたえた口笛が、もういち度やってみろよ、と君の背中を押す。

 物事には始まりがあれば終わりがある。曲順はきわめて重要だ。どこから始まり、どこを通って、どこへ向かうのか。しかるべき論理の道筋をたどるなら、「Good Times & Bad Times」が置かれるべき場所は、アルバムの最終トラックをおいてほかにない。「Happy End」から始まり「Good Times & Bad Times」で終わる。これまでとこれからの物語が、聴き手の現在のなかで交錯しつつ、それらすべてが、最後の物語に収斂する。アルバムの着地点として、これを超える正解はどこにもない。