SME主催「サムデイキャンペーン・サイト」で好評だった、5人の音楽評論家による「サムデイ」批評テクストを、あらためて掲載します。見逃した方はどうぞ。
(転載の許可を頂いた、SMEと各ライターのみなさま、ありがとうございます。)



#1
アルバム「SOMEDAY」が照らし出した82年について
落合昇平

「僕が僕の音楽や意志を伝えるために必要と思える媒体と、そこで僕がしなければならない活動を 教えて下さい」とはじめて会った佐野元春は言った。それは246沿い、青山1丁目の交差点際にあった EPICソニーのオフィスで、1980年のはじめのことだった。めがねの奥に真剣に光る目があった。 佐野元春、EPICソニーと契約。

佐野元春の音楽はプロデューサー・サノモトハルによってきわめて情熱的かつ意志的に作り出さ れ、届けられる。頭の中で隅々まで構成され鳴り響きはじめた音は出口を求めて彼に「動け動け!」 と言う。キーボードに向かう指、弦をはじく指、踏みならす足、気ぜわしい手拍子、語りかける言葉、 歌い出す唇。「さぁ、とどけとどけ。どうとどくんだ」と彼は言う。ステージに駆け上がり、ステージ を降り、ラジオマイクの前でしゃべり、インタビュアーの前で伝える言葉を考えている。

1980年、ファーストアルバム「Back To The Street」リリース。しかし彼の出口は見えていなかった。 テレビやラジオや大部分の活字はアイドルポップスに開かれていて、ニューミュージックは それらに流れ込んでいた。マインドを描く彼の音楽はポップスをはみ出していたし、ニューミュー ジックに近づくには乾いていたし、ロックに入るには汗の匂いと髪の長さが足りなかった。80年末、 文藝に「なんとなくクリスタル」が掲載され大学生の生活スタイルに大きな影響を与えはじめると “シティ・ミュージック”“シティ・ポップス”といった潮流ができた。佐野元春もその中に放り込ま れるのだが、ファッションやブランドによって自己が記号化されることを拒否するのが彼の音楽の 有りようだったから、彼の苦笑は深かっただろう。
ライブTVプログラム「ファイティング80s」(TVK)をレギュラー母胎としてオーディエンスと向き 合うスタンスができると、彼はライブに積極的に取り組んだ。セカンドアルバム「HEART BEAT」、 杉真理とともに参加した大瀧詠一プロジェクト「ナイアガラ・トライアングルVol.2」で評価を高める と1982年5月、サードアルバム「SOMEDAY」をリリースした。

あえてことわっておく。「SOMEDAY」はシングルヒットしなかった。
ヒット曲はもっと泣くか笑うかしなければいけない時代だったから。

その時代、20年前、人々は現実と向かい合おうとし、しかし群れに逃げた(-----でなければあれ程 「なんクリ」的ファッション&ブランド化の記号の中にとらわれなかった)。そして人と人との間に 横たわる絶対距離や対立や迎合を恐れ(----ブラックデビルVSタケちゃんマンの笑いはモルヒネに 似ていた)、くっきりと分かれ離れていく本音と建て前に憮然とし(NHK的?「気くばりのすすめ」) それらも笑いに変えることができた。しかし自分の中にある形にならない不安や衝動。憧れてやま ないものとあきらめたもの。優しさ。人と人。笑いの裏側でそうしたものが持て余すほど肥大化して いた。その時代「SOMEDAY」は届いた。

街のノイズとクラクションのイントロは魔法だ。
その魔法の扉の向こうに、窓辺にもたれ夢のひとつひとを消している自分がいる。
「手おくれ」の声に口笛を吹いて答える自分がいる。
手を伸ばすと、忘れていた自分の“生きものの暖かさ”に触れてしまう。
都市の中で記号化し、笑いの中で自分の正体を忘れた人間の
でも体の中でドクドクと鳴っている心臓の音をそこに聞いてしまう。


このアルバムのリリースに前後して、藤原新也が「東京漂流」(83年刊)で触れた事件たちが横たわ っている。川崎市宮前平で起きた20歳の青年が金属バットで両親を撲殺した事件、高校生祖母殺害 事件、東京新宿西口バス放火事件、イエスの方舟事件、深川通り魔殺人事件、羽田沖日航機墜落事件、 東大名誉教授殺し事件、日大生隣人刺殺事件……。自分の生まれ育った風土を離れ、あるいは失って 東京に漂流する人々の折り合いのつかなくなった人間関係・意思の不通と藤原新也は語っている。 これらの事件の先にどんな事件が待ち受けていたかを……20年後の今、いやというほど知っている。

「SOMEDAY」リリース20周年のリ・イシューは祝い事ではなく、今も「SOMEDAY」が照らし出して いる時代を確認する企てであり、次へ進む佐野元春の確認となっている。




#2
自分で引いた綿密な図面に自ら背いてしまうような彼のロック衝動やインスピレーションは、 いまもこのアルバムに精気を保たせている。
山本智志

 20年前のことだ。もういまは存在しない音楽雑誌の狭くて雑然とした編集部で、ぼくは編集長に1本のカセット・テープを聴かされた。「きっときみなら気に入るんじゃないかな」。彼はぼくの顔をのぞき込むようにそう言って、再生ボタンを押した。

 それは「サムデイ」のアドヴァンス・カセットだった。若い世代の感情を明確にとらえた歌詞、ロックの分野からしか生まれてこないメロディーとサウンド、そしてその曲の作者自身による熱意と倦怠が入り混じったヴォーカル―――。曲がはじまって1分もたたないうちに、ぼくはすっかりその曲に魅せられていた。

 「これが佐野元春、ですか」。驚いた面持ちで確認するぼくに、編集長はうれしそうな顔でうなずいた。その歌は、ポジティヴなメッセージを持ってはいたが、テーマはちまたに転がっている気楽なポップ・ソングとはくらべられないほど真剣なもので、その苦悩の深さにおいて誠実だった。胸が締めつけられるような、静かな興奮を覚えながら、ぼくはそれまでに発表されていた彼の2枚のアルバムを聴きそびれていたことを後悔した。そして、この男に会わなくてはならないと思った。

 何週間か後、ぼくは佐野元春にインタヴューする機会を得た。そしてさらにその2週間後、「サムデイ」を聴かせてくれた編集長への返礼も込めて、彼の雑誌用に3,000字の記事を書いた。

 それから20年―――。それはけっして短い時間ではないが、この20年前の出来事はぼくの記憶のなかでいまも鮮やかだ。そして、アルバム『サムデイ』はもっと鮮やかだ。

「サムデイ」をはじめて聴いてから数ヵ月後、その曲を含むアルバムが完成し、今度はエピック・レコーズがカセット・コピーを直接送ってくれたのだが、それを聴いたときのことも忘れられない。

 アルバムのハイライトである「ロックンロール・ナイト」は、いわばロック世代の成長の物語で、われわれが成長の道すがら落としてきたものについて、佐野は感情をむしろ抑えるような調子でうたっている。そこでは、冷静な観察力とよく練られた表現、そしてロックに対する理想とそれを決してあきらめないという決意が、浮き彫りになっていた。それは、ロック世代によって書かれたロック世代のための(にがい思いをかみしめるような)ロック賛歌だった。「日本のロック」の歴史において、こうした歌が当事者の立場から書かれたのは、ほとんどはじめてのことだった。

 アルバム『サムデイ』を聴き返して強く感じるのは、ロック・ミュージックに対する佐野元春の確信の強さだ。彼がロックについて“知りすぎている”ほどに豊富な知識の持ち主であることは有名だが、ロックが実は90パーセントがインスピレーションによって成り立つ(あるいはそうであるべき)音楽だということも、彼はよく知っている。『バック・トゥ・ザ・ストリート』や『ハートビート』にくらべれば『サムデイ』は明らかにその前2作よりも整合感のある作品だが、それでも自分で引いた綿密な図面に自ら背いてしまうような彼のロック衝動やインスピレーションは、いまもこのアルバムに精気を保たせている。

 ここには1982年の佐野元春がいると同時に、20年間生きつづけ、この先もさらに聴き継がれるべき音楽がある。初期の、自意識過剰になりがちないくつかの楽曲を別にすれば、佐野元春の音楽はそれ自体がひとつの“ジャンル”を築きあげてきた。どの作品も、彼のファンにとっては(そしてもちろんぼくにとっても)特別な意味を持っているのだ。

 あの音楽雑誌の編集部で「サムデイ」を聴いてから20年。佐野元春は音楽を作りつづけ、ぼくはそれらを聴きつづけた。あのときまでほとんど「洋楽」の仕事しかしていなかったぼくの関心を「日本のロック」に向けさせ、その後もずっとつなぎとめてくれたのは、彼だ。彼に、そのことをあらためて感謝したい。

 はじめて会ったとき、質問のひとつひとつに、一度英語で考え、それを自分で日本語に通訳して答えているかのような、彼のあの独特の“口調”には、最初の5分間は戸惑いを覚えた。そのあとの数十分はわくわくするような気分の連続だったのだが。あのときのことを振り返ると、いまでもつい思い出し笑いをしてしまう。彼に会うのはいつも楽しい。またそのうち彼にインタビューする機会が得られれば、と思う。彼はいつもどおり、あの口調で応じてくれることだろう、きっと。




#3
出会いの時が10代であった偶然には、今でも感謝せずにはいられない。
能地祐子

 よくよく考えてみると、わたしは佐野元春について“思い出す”とか“振り返る”ってことをしたことがない。つまり、忘れたことがない。ずっと佐野元春の音楽を聞き続けてきた。20年前の『Someday』に収録された曲だって、ベスト盤やシングル集や色んなライヴ・バージョンで聞いてきたし。そんなわけで、いつも一緒。常に“今”の佐野元春から目を離すことがないから、どんな曲にも“過去”という印象がない。それゆえに、過去をしみじみ思い出す機会を逸してきたのかも知れない。
 が、『Someday』だけは別モノだ。
 このアルバムに関してだけは、いつも“思い出”の匂いがつきまとう。懐かしくて、せつなくて、涙腺がゆるむ。これまで何度繰り返して聞いたかわからないのに、聞く度にいつも必ず、出会いの瞬間へと心が引き戻されてゆく。初めてレコード屋でジャケットを手にした瞬間、何かを言いたげにコチラを見つめるまなざしに立ちすくんでしまったこと。あわてて家に帰って、レコードをターンテーブルに乗っけた時の気分さえハッキリと覚えている。1曲めの「シュガータイム」がゆるやかに始まって、次の「ハッピーマン」でグーンと加速してゆく快感にひとり歓声をあげていたことも。もったいなくて、なかなかハサミを入れられなかった組立ブックレットはとても読みづらくて、ある日、意を決してようやくブックレットに組み立てたらすごく可愛かったことも。毎日、ひとつの旅をするように1曲1曲を味わい、最後の「サンチャイルドは僕の友達」では別れの切なさに似た寂しさを感じていたことも。誰にでもある“青春のサウンドトラック”というものがわたしにもあるとしたら、それは間違いなく『Someday』だ。
 今の自分自身にぴったり寄り添う音楽に出会う、心が震えるような感激。それは初めての体験だった。「ダウンタウンボーイ」は、自分をとりまく退屈や憂鬱をポップな色あいに塗り替えてくれた。「サムデイ」は、きっとオトナになったら気づくであろういろんな出来事を予言しているような気がしてならなかった(後に、そんな予感は正しかったことを知るわけだが)。たぶん、このアルバムはオトナになっても聞き続けるだろうと思っていた。そして、佐野元春というミュージシャンとは一生のつきあいになるだろうと思っていた。まさか、やがて自分が音楽ライターになってホンモノの佐野元春に出会うことになるなんて夢にも思っていなかったけれど。
 たまたま、運良く、『Someday』だったのかも知れない。
 どうしようもない青春のツジツマを合わせてくれる音楽。絶望とか混沌から解放してくれる音楽。ありふれた高校生の日常を、特別な瞬間へと変えてくれる音楽。どんな時代にも、どんな少年少女にも、誰にでも絶対に必要な、そんな音楽。'80年代前半に高校生だったわたしには、それがたまたま『Someday』だったのかも知れない。もしくは、わたしがたまたま10代だった。と言うべきか。当時わたしが20代であろうと30代であろうと、この名盤には深い感銘を受けたには違いない。けれど、出会いの時が10代であった偶然には、今でも感謝せずにはいられない。あのアルバムに出会った時に感じた、得体の知れない欲望。解放感。希望。もしあの時、『Someday』に出会わなかったとしたら……いや、そんなこと、想像すらできない。
 授業中に回し読みしていたティーン誌の片隅に載った、小さな記事。それが『Someday』の存在を知るきっかけだった。そういえば、わたしはいまだに、雑誌の記事を書きながら、これが誰かにとってかけがえのない出会いになればいいな……なんてことをマジメに願ったりしている時がある。となると、わたしがライターの仕事を続けてこられた原動力も、『Someday』とは無関係ではないような気がしてきた。




#4
”継承”の対象としてのポップミュージック。それがここから始まった。
田家秀樹

 アルバム「SOMEDAY」には二つの意味があると思う。
 その二つは相交わることのない、一見対立する概念するようにも見える。そして、そんな両方の視点でエポックメイキングなアルバムだった。
 一つは”点”という意味でた。
 時代を区切るアルバム。それまでの日本の音楽にはなかったみずみずしい作風を確立したという意味に於いて。
 佐野元春のデビューは八十年だ。きっと、そんな風に年号や数字で何かが変わることなどないと言う人もいるだろう。単なる暦の綾であって、偶然に過ぎないという指摘も正論だろう。でも、そうやって数字の変わり目に新しい何かが生まれることも少なくない。
 佐野元春のデビューはまさにそんな”事件”だった。
 それまでのフォークやニューミュージックの持っていた日本的な”湿り気”、メロデイー先行という名の”ビート不在”そして、”時代感の欠落”。それらを颯爽と一掃して見せたのが佐野元春だった。
 ストリートという舞台を駆け抜けるような軽やかさ。それも地方都市ではない。スクランブル交差点や横断歩道や明け方の公園を背景に繰り広げられるフラッシュバックのような青春群像。それはアメリカン・ニューシネマを見るように映像的で詩的だった。
 デビュー当時、彼は、サリンジャーを引き合いに語られることが多かった。少年のイノセンス。成長と喪失。その光と影が織りなすみずみずしいグラフィテイー。
 それまで”フォーク系”というイメージのあったシンガーソングライターに”ポップ”という概念を付け加えたのも彼だ。
 カタカナの名詞をちりばめた言葉。”ポップ”としての日本語とでも言えば良いかもしれない。日本語をビートで解体してみせる。七十年代のアーテイストが、日本語とロックの折り合いに苦闘していたのが嘘のような鮮やかさだった。対立概念としてあった”ロック”と”ポップ”の歴史的融合である。
 そんないくつかの要素が完成されたのがこのアルバムだった。「シュガータイム」にしても「ハッピーマン」にしても「ダウンタウン・ボーイ」にしても、大作「ロックンロール・ナイト」にしても。どれを取っても、今触れてきたことに当てはまるだろう。
 そして、それらが、日本のポップミュージックを区切る分水嶺としての”点”だったとしたら、もう一つは”線”という意味について見なければならない。それは言葉を換えて”普遍性”と言っても良い。
 言うまでもなくポップミュージックというのは”旬”の音楽だ。
 時代の動きと共に変わって行き、つねに新しいスタイルを生み出し、新陳代謝を続けている。それは、今も当時も変わりはない。
 でも、今は、それだけではない。
 色あせないポップミュージックの誕生。メロデイーやビートというスタイルだけでななく、そこに流れる願いや祈り。時代を超えて生き続ける普遍性。アルバムのタイトル曲「サムデイ」こそが、その曲だ。
 もし、この歌詞を活字で読むだけだったら、こんな風に胸を熱くさせることはあり得ないに違いない。そうした言葉が、こうやって音楽になった時に生まれるもの。それこそが音楽の”マジック”以外の何物でもない。
 このアルバムには、七十年代の日本語のロックを確立したはっぴいえんどの大滝詠一の影響が色濃く反映されている。ボーマス・トラックに入っている「マンハッタンブリッジ」が入っていたアルバム「ナイアガラトライアングル」は、大滝詠一がイニシアテイブを取って次の世代のアーテイストを集めて作ったアルバムだった。”点”として生まれた音楽が”線”として繋がってゆく。”継承”の対象としてのポップミュージック。それが、ここから始まった。
 佐野元春以前以後。歴史を変えたアルバム。ジャパニーズ・ポップスの金字塔とは、このアルバムのためにある言葉だろう。




#5
ポップであることがロックの堕落であるという思いこみに対しての鮮やかなアンチテーゼ
前田祥丈

 思えば、佐野元春がデビューした1980年は、日本のポップ・ミュージックシーンにおいて、アンダーグラウンド・カルチャーだったロックが、オーバーグラウンド・エンターテイメントに変質していくポイントともいえる年だった。

 たぶん、本質的な状況はいまだって変わっていないのだろうけど、日本に伝わったロックのイメージというヤツは、かなりゆがんだものだった。60年代に目立った、反抗する若いジェネレーションが創り出したカウンター・カルチャー・メディアというキャッチフレーズが肥大化して受け止められ、伝統音楽、商業音楽としての脈絡はほとんど無視され、<若者の価値観を主張する新しい表現>として受け止められた。はやい話が、なにもないところから生まれた革命的な音楽、という神話が、日本のロックについてまわったし、それが70年代の日本のロックの、よく言えばきまじめさ、悪くいえばかたくなさの背景だったのだろう。

 80年前後になって、そんな教条性を前面に出すのではなく、ポップ・ミュージックとしてのかっこよさをアピールする作品が注目され、新しい世代のロック・ミュージャンも次々と登場していく。佐野元春もそのひとりとしてシーンに迎え入れられた。

 しかし、当初、佐野元春がいかなるスタンスに立つ表現者なのか、リスナーの理解はあいまいなままだったと思う。彼のデビユー曲「アンジェリーナ」やアルバム『バック・トゥ・ザ・ストリート』は、ブルース・スプリングスティーンを彷彿とさせるパッショネイティブでインパクトあふれる作品だった。だから、佐野元春を、日本のスプリングスティーンと呼ぶ人もいた。

 けれど、だからといって、それで佐野元春のことがなにかわかったわけじゃない。第一、スプリングスティーン自体に対しても、当時は<ロックの新スタイルを切り開く革命児>という程度のイメージしかもっていなかった人が多かったんじゃないか。

 スプリングスティーンが、アメリカン・ポップ・ミュージックの歴史と伝統のうえに、彼ならではのロック・スタイルを生み出していったように、佐野元春も自分のルーツとなるさまざまな音楽との出会いから彼ならではの音楽スタイルを作り上げていたに過ぎなかった。

 もちろん、佐野元春にはスプリングスティーンに対するシンパシーはあったに違いない。だからといって、彼はスプリングスティーンのように演奏しようとは考えていなかったハズだ。

 自分がどう評価され、位置づけられるかを目の当たりにしながら、おそらく佐野元春は、この国の歴史意識の欠如、継承への敬意のなさを痛感したのではないか。

 そして、そうした不本意な評価に対する佐野元春の回答が「サムディ」という曲だったのではないか。曲解かもしれないが、そう思うことがある。

 初期のメッセージをストレートに伝える『バック・トゥ・ザ・ストリート』『ハート・ビート』に続いてリリースされた「サムディ」は、エネルギッシュに力押しするロッカーという佐野元春のイメージをくつがえす楽曲だった。リズム・パターン、アンサンブルに、60年代オールディーズのエッセンスをたっぷり盛り込みつつ、そこにポジティブなメッセージをのせたこの曲は、より幅広い人々の目を佐野元春に向けさせた。

 ポップであることがロックの堕落であるという思いこみに対して、この曲は鮮やかなアンチテーゼとなった。大胆なオールディーズ・アイテムは、佐野元春のロックが、ポップ・ミュージックの伝統の理解と継承の上にあることを表明している。それは、日本のロック・クリエイターとしてはきわめて意識的でラデイカルな行為だった。

 その後、佐野元春は自らの表現スタンスをロジカルに表明することによって、鋭角的な作品のエッジを補強しつつ、時代への批評性を明確にしていくが、「サムディ」はそうした姿勢の宣言というべき作品だったのではないかとも思う。
「サムデイ」は、オールディーズの意識化という手法によって、ポップ・エッセンスの継承、そしてロックの意味を問いかけた作品だった。それは、日本のロックがメジャー・エンターテイメントになろうとしている時代への予言であるとともに、警鐘でもあった。

 そして、それは奇しくも、ブルース・スプリングスティーンが、ロイ・オービソン、ミッチ・ライダーらへのトリビュートを通じて、自らの作品における継承の姿勢をさりげなく表明した姿勢と重なっていたのかもしれない。

 それにしても、この国の歴史意識の欠如、継承への敬意のなさは、20年経ったいまもほとんど改善されているようには見えない。その意味でも、「サムディ」の存在価値は薄れていないのではないかと思う。


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