『ZOOEY』に関するサエキのメモ
サエキけんぞう

 僕たち日本人ロックファンは、かつて外人ロッカーに憧れていた。もちろん今だってトップを走る彼らには夢中だ。でもそのために、日本人ロッカーには、いつもその向こう側に、先輩外人ロッカーの影を見ていたんだ。

 しかし、その影をついに払拭する日が来た。『ZOOEY』の佐野元春の人と成りは、外人に負けない。初回版DVDを見て欲しい。特に「世界は慈悲を待っている」。ギミックはない。ただ動き歌う佐野元春がいればいい。こんなクリップはなかなかない。

 近々に同じような印象を持ったのはR.E.Mのラストアルバムに際して発表された、スタジオ演奏を収めた、簡素なクリップだ。80年代に活動開始、ローリング・ストーンズやザ・バンドの後塵に拝しながら、粘り強い活動を続けたR.E.Mが、ついに、ホール・オブ・フェイム入りしたといえるようなイブシ銀の輝きを放っていた。何かに開眼したようなマイケル・スタイプのたたずまいが切れていた。

 さて、ロックの輝きとは何だろう?

 かつてミックが、レヴォン・ヘルムが歌い、奏でた時、僕等はブロードウェイ・ミュージカルのようなラグジャリーに酔ったのではない。我々は、ホロ苦くも、生命の琴線にふれる「真実の響き」をロック・パフォーマンスに感じたのだ。そこには全てを亡きものにするような「欲望に忠実なこの世界」の圧力に対する、本質的なレジスタンスの輝きがあることを、幼くても感じたのだ。

 その輝きに魅せられた者は、子供であろうと、老人であろうと、何らか、最低でも何歩かは、すぐに走り出さずにいられなかった。ロック・パフォーマンスとは、批評精神を持った生き様が、どうリズム&ブルースと呼応するか?なのではないか?と思う。

 さて、日本でロック的なアーティストは様々に出現したが、そうしたパフォーマンスを可能にしたアーティストは皆無に近かった。それが今回『ZOOEY』のたどりついた奇跡の境地なのだと思う。先日の東京ライブで、佐野元春は若い子に「つまらない仕事につくんなら、俺を目指せ」といった。それがロックだ。まぁ、不良だ!

 バンドのメンバーとの融合感が凄い。普通、若いメンバーと組むと、媚びるか、突き放すか、いずれもとってつけた感がある。しかしザ・コヨーテ・バンドは、年齢差はそのままに、溶け合っている不思議な一体感がある。こんなに綺麗な表情をしている彼らもなかなか見られないだろう。

 日本のロックに残っていた「外国ロックに憧れるあまりのギクシャク感」が、その融合感によっても、綺麗に消え去っている。

 長いこと、日本のロックバンドのボーカリストはバンドから浮いていた。しかし、本場に負けないクリティカルな感覚を研ぎ澄ませた佐野元春は、今、「ロック」の使命を手にして、「ロック」バンドと確かな融合を果たしたのだ。

 ひょっとしたら苦過ぎる日本の現実が佐野元春を後押ししたのかもしれない。確かに、海外に負けない荒野は、日本にもすでに始まっていた。荒野における魂の自由、それこそがロックの約束の地だったのだろうか?

 コヨーテ? そこに、優しくも強靱に立つ佐野元春、涙が止まらない。