より一層、自由に、闊達にさせていく「結び目」
城山隆(編集者/物書き)

  6年ほど前のリリース時、《COYOTE》について「文明の荒地に文化の轍をしるした傑作」だと評したが、最新作《Zooey》は、まずもって、前作に次いで伴走するザ・コヨーテ・バンドと更なる音楽の道行きを求め合った「結」作だと云える。

 初回限定盤に収められた制作ドキュメント映像等からも垣間見えるが、佐野が自ら求める曲の「向こう側」をバンドの各々にイメージ伝達し、メンバーもそれぞれの手捌き、心捌きでもって「向こう側」に繋がる「向かう側」へと進路を定め、未来が霞み澱む荒地にあってもブレーキ知らずアクセルのみの強弱で、道々、岩の如く点在する言葉の声を捉えては、新たな音楽の轍を希求してやまない、そんな印象だ。

 果たして、新たな音楽の轍は刻まれた。それは、なにやら円い轍。〈君と一緒でなけりゃ〉が《THE CIRCLE》のレコーディング時に書き下ろされた事実が、若干筆者に作用しているやもしれないが、1993年の名盤《THE CIRCLE》からちょうど20年、円環を覚える。さりとて回帰的一巡では毛頭ない。その結び目は、敢えて例えるなら「智慧の輪」の結び目。智慧さえあれば閉ざされることなく開かれていくものだ。

 人間という化け物が欲望のまま利己的に地球を食い散らかしつづけている現実にあっては、〈君と一緒でなけりゃ〉のフレーズが照射するように“人間なんてみんなバカさ”だが、ゆえにスーパー・ナチュラル・ウーマンの柔らかな「ヴァギナ」で世界を抱きしめる必要が今この瞬間 (とき) にあるのやもしれない。

 最新作《Zooey》は、「愛」に彩られている。それは、従来のアルバムと比しても最大なものだろう。代表例として、佐野流の女性賛歌〈スーパー・ナチュラル・ウーマン〉の愛は求心的で、子宮こそが地球だと云わんばかりに愉しげで豪胆だ。逆に3.11以降に書かれた最初の曲だという〈La Vita è Bella〉の愛はどこか遠心的で、感情に溺れることなく諦観の先に渦巻く愛の本質を縁取ってみせる。そして多くの曲で、愛の様子は現在ではなく未来へと向かっている。それは、津波のごとく虚無が押し寄せた3.11に対する、ソングライターとしての魂の祈り、ヒューマニズムなのだろう。

 命が朽ちるその瞬間まで、佐野はソングライターとして未来を代行しつづけるものと思われるが、〈スーパー・ナチュラル・ウーマン〉で“刹那”と記して“ヴァギナ”と発声する斬新さをさらりと行使し、言葉の内に秘められた生命力そのものに言葉を与えようと試みたアルバム《Zooey》は、佐野元春というソングライターのこれからをより一層、自由に、闊達にさせていく「結び目」だと云える。

 ソングライターのポケットのなかには、いくつもの解かれていない「智慧の輪」がじゃらじゃらしゃらしゃらこつんこつんと繊細かつ複雑な音を共鳴させては密やかに、その「刹那 (しゅんかん)」を待っているに違いない。