エド・サンダースの経歴をひと言でいい表すのは難しい。古典文学の研究者であると同時にピース&ラブに殉じる神秘的な活動家、あるいは環境保護問題を追う調査官であり、さらに過激派バンド、ファッグスを率いるロックスター、ボヘミアン出版社の発行人、本屋の店主、消費者運動の闘士といった肩書が並ぶ。またチャールズ・マンソンによる映画監督ロマン・ポランスキー夫人シャロン・テート惨殺事件をルポした『ファミリー』(草思社)をはじめとするノン・フィクション作家として知られ、物語作家、詩人であるとともにベトナム反戦運動を描いたノーマン・メイラーの『夜の軍隊』(早川書房)の主人公でもある。そんな慌ただしく連なるキャリアは、まさに50年代のビートニクスの精神を最も正統的に60年代、そして現在へと受け継いできた証でもある。この物騒な〈電気仕掛けの吟遊詩人〉は、しかし予想に反して、大地の優しさとおおらかさを漂わせた笑顔とともに私たちの前にあらわれた。

タイトル:エド・サンダース
インタビュー:佐野元春
掲載号:THIS FALL.1994 Vol.1 NO.0






――60年代にあなたはイーストビレッジに本屋を開くとともに、そこを拠点に『ファック・ユー』という雑誌を発行していました。まずはそのコンセプトから聞かせて下さい。

エド・サンダース(以下ED) 本屋を開いていたのは'65年から'70年にかけてのこと。 文化の中心として詩人やミュージシャンが集まって交流する場として開いたものです。雑誌の方は'62年から'65年にかけて出版し、詩人の間ではとても評判でしたが、一方で議論の的でもありました。つまり、アメリカというのはとても清教徒的な国なのです。私はエロティックな詩を人目にさらすことで、危険はありましたが論議をかもし出し、自由の域を広げようとしました。せっかくアメリカの議会が多くの自由を保証しているというのに、実際には誰もそれを利用しようとしない。そこに訴えたかったのです。私はそうした活動を理由に逮捕されはしましたが、当然裁判には勝ちました。まあ今から思えば、あれはいってみれば詩と快楽と、そして……。

――そして音楽ですね。

ES そう、その三つからなる非常にシンプルな行為だったわけです。ファッグスはちょうどその頃に結成されたバンドで、グリニッジ・ヴィレッジの小さなアートスペースやクラブを皮切りに、徐々に演奏の場を広げてゆき、やがてサンタモニカ・シビックやモンタレーではジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョップリンらと同じステージにも立つようになりました。

――詩に関していえば、今でもロックミュージックなどの他のメディアと結びつく可能性を感じていますか。

ES 例えば、詩とビデオの結びつきには大きな可能性があると思います。つまりコンピューター・アニメーションやバーチャル・リアリティなどを使ったポエトリー・ガーデンの再現ですね。

――では詩と〈インターネット〉などの情報ネットワークシステムはどうですか。

ES 今の段階ではそれはちょっと難しいと思います。アメリカのインターネットは、例えば私は国内アーティスト/ライターのブルティンボード(掲示板)である「アーツウエア」に属していますが、字体が限られていることや、イメージのスキャンができないといったこともあってその活動は視覚的な点で非常に限定されています。まだまだとても原始的な状態です。また大勢の人がファックスや手紙やE・メールを送ってくれるのはいいのですが、すぐに何千枚もの手紙がたまってしまって、結局のところ全部に目を通すことなどとてもできません。

――ではあなた自身のことについて聞かせてください。ライティングスタイルについて、誰から最も強く影響を受けましたか。

ED いちばん最初の影響は詩人のエドガー・アラン・ポーです。死や恐怖を扱った彼の小説は私のみならずすべての少年たちに人気でした。それから五〇年代のティーンネイジャーだった頃にアレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズ、ジョアン・カイガー、ゲイリー・スナイダー、ダィアン・ディ・プリマといったビートニクスを知りました。それからエドナ・セントビンセント・モレイというアメリカの詩人からも影響を受けましたね。でも何よりも大きな影響は、禅の詩や俳句、そして禅庭園です。私はカンサスシティに育ちましたが、そこのアートギャラリーに禅庭園があったことが今でも強く響いています。またビートの他に、私はギリシア語とラテン語も勉強していたので古代ギリシャやラテンの詩にも影響を受けています。ホメーロスやサッポー、またはシェイクスピア。あるいはブラックマウンテン・ポエツチャールズ・オールソンロバート・クリーリーロバート・ダンカンなどからも影響を受けました。

――ジャック・ケルアックはどうですか。彼と初めて会ったときのことを覚えていますか。

ES 私がニューヨークに本屋を開き、ファッグスとして活動していた頃にはすでに彼は他所の土地に移っていたので、実際のところそれほどよくは知りません。ただ六八年に当時人気だったテレビ番組、ウィリアム・バークリー・ショーに一緒に出演したり、時に彼から電話をもらって詩を詠み合ったりしたことは覚えていますが。ただその当時には飲酒癖がひどく、体調もよくありませんでしたから、『路上』を書いた若き作家の面影はまったくありませんでした。私が最も親交を深めたのはやはりアレンですね。私の本屋が彼の家の近所にあったこともあり、反戦運動やコンサートなど、どこへ行くのも一緒でした。

――現在は環境保護活動を進めているいるそうですが、具体的にはどのような活動をしているのですか。

ES 現在、アメリカでは問題が山積みする都市を抜け出し、例えば私が今住んでいるウッドストックやあるいはここボールダーのようなところに移り住む人たちが増えています。しかし、移動は根本的な解決にはなりませんからね。私たちの目的は、ではどうしたら都市に人が快適に住めるようになるか。つまり自動車の燃料をガソリンから天然ガスへと変えたり、水素自動車を開発したり、あるいは食品添加物の規制を進めること。今はできる限りリーフレットを作ったりミーティングに参加したりと、そうした活動に時間を充てるようにしています。

――同時に都市では若者の暴力が厳しい局面を迎えています。60年代の体験を通して90年代の若者に何を伝えたいと思いますか。

ES 確かに今の若者は、私たちの頃とは比べものにならないほど絶望的な状況にあると思います。例えば銃。私は銃は厳しく規制すべきだと思っていますが、実際には15ドルも出せば誰でも手に入れられるのが現状です。大都市ではいつ撃ち殺されてもおかしくありませんし、当然子供の手にも容易に渡ってゆきます。ですから、申し訳ありませんがメッセージらしきものを与えることはできません。本当にひどい状況です。それにこの問題は、貧困や教育制度の崩壊と絡み合っていて…。答えは簡単には見つからないでしょうが、ただ貧しい人々を援助してホームレスを無くし、せめてライフルだけでも規制すること。それから彼らに多くの詩を暗唱させることも、あるいは助けになるかもしれません。

――現在はどんな作品に向かっていますか。

ES ちょうど有害廃棄物の違法処理問題に関する『マーダーリング・ウォーター』が仕上がったばかりです。それから医療、特に脳細胞についても書きたいのですが、今は地元のコミッションとして飛行機から農薬散布を禁止する法律をはじめ、環境に関する様々な法律を書かなければならないので時間が許してくれそうにもありません。


『ファミリー』
1971年にE.P.ダットン社から刊行されたベストセラー作品。60年代の西海岸で、一人の狂信的な指導者に率いられたある若者集団が白人中産階級を憎悪する戦闘的な殺人集団へと結束していった経緯を、膨大な資料をもとにクロノジカルに再構築したクライム・ドキュメント。そうした内容を、サンダースは、カポーティのように文学趣味に走ることもなく、ゲイ・タリーズのようにニュー・ジャーナリズム的手法を取ることもなく、徹底して感情移入や心理描写を排し、事実の集積に専心することで描き切っている。

『夜の軍隊』
1967年10月21日にワシントンで行なわれたヴェトナム反戦抗議のための国防総省(ペンタゴン)への歴史的な行進、その前後4日間を描いた作品で、翌68年に刊行されるや人間メイラーの肉的体験のオデッセイとして高く評価された。(全米図書賞/ピューリッツアー賞受賞作品)

ダィアン・ディ・プリマ
生年月日不明。イタリア系の女性詩人。詩集として『ディナーと白日夢』『ロスアンゼルス・オデッセイ』『ビートニックの思い出』などがある。また『反戦詩集』や、リロイ・ジョーンズと共同編集した『The Floating Bear』という反戦色の強い雑誌を出版してもいる。

ブラック・マウンテン・ポエツ
1933年にジョン・アンドリュー・ライスによって創設されたブラック・マウンテン・カレッジに集まった詩人たちを指す。わずか20名前後のカレッジにもかかわらず、ここからジョン・オッペンハイマー、ジョナサン・ウィリアムズ、フィールディング・ドウソン、エドワード・ドーンといった詩人が輩出された。またロバート・クリーリーによる先鋭的なリトルマガジン『ブラック・マウンテン・レヴュー』はそんな彼らのデビューの場となった。

チャールズ・オールソン
1910年生まれ。ホイットマンの系譜を受け継ぎ、アメリカの広大な空間に生きる荒々しい力をもった詩を数多く発表した。また50年には<投射詩論>を発表し、活字のみに頼る詩を「閉じた詩」として批判。耳に訴える呼気を重視し、開かれた詩への転換を主張した。作品に『わが名はイシュメイル』『マヤからの手紙』などがある。

ロバート・クリーリー
1926年生まれ。ブラック・マウンテン派の理論面における中心的存在としてレヴューの編集に携わった。ただしオールソンとは違い、その短詩形の作品は一貫して愛を問題とした。作品に『道化』『愛のために』などがある。

ロバート・ダンカン
1919年カリフォルニア州オークランド生まれ。無意識や夢の世界、神話的思考を特徴とする作品を数多く発表。サンフランシスコ周辺を活動の場とし、50年代後半、東海岸から来るギンズバーグやケルアックの作品を受け入れる土壌を作った点でもその功績は大きい。



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