“文明の荒地”に“文化の轍”をしるした傑作
城山隆(編集者/物書き)

「成熟を往きてもなお涸れることなく、いかに瑞々しく在りつづけられるか。それこそが加齢に抗うロック的命題のひとつに違いない。佐野の、創作者としての軌道は、まだまだ頂を目指している最中だ」
 これは、快作『THE SUN』のリリース時、筆者が記したコメントの一部。それから3年を数え、佐野にとって50代初となる最新オリジナル・アルバム《COYOTE》を一聴したその端、瑞々しく在りつづける彼のロック魂の常光を、かつ創作者としての確かな軌道の上昇を、改めて新たにした。

 最新作は全オリジナル・アルバム中、最も佐野の詩人的資質が光る作品だといえるのではないだろうか。平易な言葉の連なりにもかかわらず、その巧緻な組み合わせの妙は喚起力を高め、聴き手各々のイマジネーションを大いに稼働させる。たとえば筆者の場合、〈荒地の何処かで Wasteland〉では、こんな風に。高く垂直に生えたビルディングの天辺から見晴らす、大都市の光景。コンクリートで埋め尽くされた街は、太陽にその皺や襞までもあぶり出され、茫漠たる荒地のように在る。しかし殺伐としたジオラマのようなパノラマも、ひとたび闇が舞い降り、あまた灯りがくまなく敷き詰められるや、幻影のごとき沃地へと変貌する------。なにげに発生したこうしたイメージの行き着く先を求め、〈荒地の何処かで Wasteland〉を繰り返し繰り返し聴くこととなる。

 また曲名から、有名な詩を想起もする。米国に生まれ、英国に帰化した詩人、T.S.エリオット(1888-1965)が、1922年に発表した433行からなる長大な実験詩『荒地(The Waste Land)』がそれだ。現代文明に対して虚無感や絶望感を横溢させた『荒地』の批評的精神は、〈荒地の何処かで Wasteland〉にもそれとなく継承されている。とはいえ、むしろアルバム全体をして佐野版『荒地』の趣向を感知する。曲と曲とがその歌詞において連作的な意味合いを成し、文明批評的な色合いも併せ持っている。そして、それら歌詞の総ライン数が奇しくもエリオットの『荒地』とほぼ同数でもある。佐野が意図したことではないだろうが、そんな偶然さえなにか詩的な符合を感じずにはおられない。

 詩的なアルバムにあって、私的には〈呼吸〉を最も好む。音に言葉に、どこか宗教的な“響き”を覚えつつ、その実、個人的な“呟き”としてまさに呼吸のごとく自然に身体に入ってくる。さらには、佐野が奏でるピアノの旋律に血流を、加えて佐野が弾くベースの音に鼓動を聞く思いだ。“個の在り方”を一義としつづけてきた佐野と聴き手との豊かな循環がそそと在る。歌詞に聴く“君のそば”とは、果たして“僕のそば”でもある。

 そして、その循環こそが文化というものだろう。物質的な所産が優先される現代文明の荒地で道をなくさないための、精神活動としての文化。実社会において文化を発育させるには、時に“気高い孤独”を伴うこともある。そんな折でさえ循環を希望とし、留まることなく心を澄ませば、きっと“自分自身の声”が聞こえるに違いない。目的地をもって走る孤独のマラソンランナーが、自らの呼吸を友として聞くかのように。

「コヨーテは進化する世界において、あらゆる困難を切り抜けていく者の象徴だ」と佐野は云う。デビュー以来、“個の尊厳”を守るため、荒地然とした日本のロック・シーンで佐野元春が切り拓いてきた困難の一端を知るファンにとっては、佐野こそがコヨーテなのでは? と連想するやも分からない。もし佐野がコヨーテならば、時代を共に呼吸し、循環しつづける聴き手もまた、ある意味それぞれにコヨーテの分身だと云えそうだ。

 タイトル・トラック〈コヨーテ、海へ Coyote〉で、佐野は静かに吼える。“望みはたったひとつ/自分自身でいたいだけ”。50歳を超えてもなお、信念をぶらすことのない佐野の在りように、聴き手はいま一度、コヨーテという存在の深遠を心に巡らせ、そして久しく聞こえぬふりをしてきたかも知れない“自らの声”を自覚し、心に深く刻みつけることだろう。

 最新アルバム《COYOTE》は、文明の荒地に文化の轍をしるした傑作だと云える。