君と僕の、世界をめぐる物語
青澤隆明

 世界を愛することは難しい。人が愛するのは、いつも自分より少しだけ小さいか、大きいもの、そしてささやかな何かだ。はたして、と僕は思う。世界というものが、かつて誰かの愛の対象であったことはあるのだろうか、と。

 世界は大きすぎて、いつもその手に余る。しかし、それでも彼は世界を愛そうとしている。それがどれだけ彼を傷つけ、落胆させ、絶望させたとしても、彼は決して愛することをやめない。彼の手のなかには希望が、孤独な魂のなかには音楽がある。だからこそ、彼は彼の音楽と言葉、彼一流のユーモアと批評をもって、世界と対等に向き合おうとしてきた。そうして、人々の感情ではなく、意志について、精神のありようについて、彼は歌い続けている。

 センチメンタルな詩性や甘美な理想について、佐野元春がいかに卓抜な作家であるかは、その初期の作品からすでに顕かにされていることだ。しかし思い返してみれば、彼は"boys & girls"にとって、やがては成熟した人々に向けて、愛や孤独を歌いかけながらも、その歌はいつも世界へのラヴ・ソングでもあった。"happiness & rest"を"約束してくれた君"は、ほんとうは世界だったのかも知れないし、少なくともその歌をうたい続けるなかで、彼はそのように世界を信じ、抱きしめようとしているかのようにみえる。「SHAME」や「経験の唄」や「The Light」を挙げるまでもなく、彼はいつだってすぐそばにいる誰かを温めながら、世界に向かって遠く強く歌いかけてきたのだ。だから、僕は佐野元春の歌を聴くとき、いつも垂直な意志を感じたし、そのまなざしのなかに僕たちの現在にとって大切ななにかをみつめている。

 それでも、現実はいくらでも容赦なく襲いかかり、ときには僕たちの約束を傷つけるだろう。だから、彼は人々の人生、その日常生活の風景のなかに降り立っていった。長年の信頼を築いてきた音楽仲間たちとともに、彼は優しく、そして濃やかに、その愛すべき、"毎日の人生"を謳い上げた。紆余曲折を内に抱く成熟とともに描かれたそれら経験の歌たちはつまり、月や星や太陽の光で照らし出された、いくつもの人生や生活の頌歌である。それぞれの登場人物をさまざまな風景に照らしながら、2001年から時間をかけて丁寧に織りなされていった楽曲群は、太陽がみつめる、その俯瞰の視野を象徴性に抱いた、普遍の人々それぞれのストーリーだった。

 だから、アルバム『THE SUN』は、佐野元春が21世紀の始まりに置いた作品集というよりは、1980年代からの激しい疾走とオーディエンスとの信頼の先に築かれた、ひとつの成熟を物語る帰結点なのだ、と僕は思う。多感な少年少女は大人になり、あるいは家庭を築いて、日々を生きていく。そうした現実を現実として受けとめ、深く愛するための勇気がそこには細部までずっしりと籠められていた。The Hobo King Bandとの緻密で成熟したコミュニケーションが、その確かな背景として、誰のものでもあり得るその音楽の風景を支えていた。

 しかし、成熟と疾走が同じ地平に並べられるのが佐野元春の頼もしくも愉快なところだ。彼こそは"無垢の唄"と"経験の唄"の間をダイナミックに揺れ動き、そしてそれをひとつに融けあわせることができる表現者である。たとえば、彼がひとたびツアーに出るなら、『THE SUN』で豊穣なライフについて語りながら、それと同時に「永遠の19歳」を唱えて、初期の楽曲を全身全霊で体現しようとした。思い出や感傷といった懐古趣味ではなく、継続するリアルのために。ちょうどひとつのサークルが閉じて、また新しい季節が到来するかのように、"Back to the Street"的な初期衝動が佐野元春を揺らし、それはThe Hobo King Bandのメンバーの演奏の表情にも映し出されていた。おそらく、各地で集まった満場のオーディエンスもそこに同じ思いを重ねていたことだろう。

 そう、疾走と成熟を息苦しいほどに深めて、佐野元春はふたたび「星の下 路の上」に立った。いや、彼はずっと立ち続けてきたのだ。いくら大人になっても、少年は終わらない。まっさらな裸の瞳に映ってみえるのは、いつだって勇気だ。僕はそのことを大地の上で知る。そして、"アンジェリーナ"の最後のシャウトが、遥かこの地平まで、地続きで響いている事実に僕は震える。いつだって、幾度だって、旅はまだ始まったばかりだ。

 マキシ・シングルとして放たれた『星の下 路の上』を初めて聴いたとき、次世代のメンバーたちとbrutal youthな旅に出た佐野元春がこれからどこへ車を走らせるのか、いずれにしても新しい季節の到来だ、と僕は思った。しかし、ストレートに投げ出されると思われたその物語の風景は、現代の寓話のなかの序章として構成された。それが、アルバム『COYOTE』という、佐野元春一流のプレゼンテーションの方法だった。ロード・ムーヴィーのオープニングのように、「星の下 路の上」に僕たちは放り出される。奔放に叫びながら、新しい旅へと誘うのはいったい誰の声なのか。

 このようにして佐野元春は、ストレートともみえた歌の光景を、新しい大きな物語のなかへとさりげなく置いてみせる。「路上」を再訪した僕たちは、そうしてすぐにこの「荒地」を往くのだと告げられる。つまり僕たちは、ケルアックの1950年代だけでなく、エリオットの1920年代にまで参照を遡ることになるが、それと同時に戦後日本の『荒地』の詩人たちをも想起させられる。世界という視座、そして文明批評的な視点をもつことは、そのいずれにも共通するが、僕たちが行くのは21世紀というさらに漠然として曖昧な荒地だ。

 佐野元春はもちろん、ケルアックやエリオットや荒地派の詩人たちのように、ある種の俳謔性をもって時代のタイトロープを歩いてきた表現者であり、その才覚はこのアルバムの旅を幾重にも多角的に読み解く愉しみを生んでいる。そして、佐野元春はポップ・ミュージックのメイン・ストリームに、臆することなくこのアルバムを提出した。それは彼が一貫してオーディエンスの知性を信頼し、決して見くびることなく歩き続けてきたことの証左であり、その行為じたいがそのまま現代日本の文化状況のクリティークでもある。コンセプト・アルバム、というのは、ダウンロードで簡便に音楽が流通される現況にあっては、もしかするといささか気の長い話でもあり、しかしそれが現在でも可能だということを、彼は堂々と試してみせたのだろう。

 さて、こうして僕たちはアルバム『COYOTE』に辿り着く。この作品が『THE SUN』の後に拓かれた光景であることは確実な意味をもつが、しかしもちろん、これがひとりのリスナーにとっていきなりの始まりであるならば、それもまた幸運と言うべきだろう。これまでの佐野元春ソングスを聴いてきたリスナーに向けては、言葉で、そのイントネーションで、あるいはサウンドを通じて、この新作のいたるところでいくつものサインが送られている。そうした蓄積から織り込まれたシークエンスは、このアルバムの世界を往く者にとって、再発見の喜びであり、経験の共有であり、記憶の確認であり、そして未来への展望でもある。そのひとつひとつを解読する愉楽はここでは明かさずにおくが、それは荒地として総称されるこの世界にも、いくつもの信頼が、いくつもの連想や繋がりが、確かな証として存在しているということだ。

 "瓦礫の中のGolden ring"と彼はかつて歌い、"ガレキの中に 荒れ地の中に 君がみえてくる"と「新しい航海」に誘い、そうして刻々と容貌を変える現実のただなかで、さまざまな光景を、その澄んだ瞳で冷静に透視してきた。この新しいアルバムも、佐野元春というソングライターがこれまでドキュメントしてきた世界の断片を寓話的に再構成した作品だとみなすことができる。つまり、気づきさえすれば、世界は比喩に充ちていて、だからこそ個々の想像力は繋がりあう。そこにゆえのない断絶はなく、未知のものは既知のものの新しい展開として物語は進んでいく。成長も喪失もすべては、きょうこのときのためにある。

 そして、音楽的な面からみれば、このアルバムは佐野元春が、彼の音楽を聴きこんできたミュージシャン、シンガー、そしてソングライターである深沼元昭、高桑圭、小松シゲルとの4人で新しいバンドを組んでの「新しい航海」にあたる。ひとつ若い世代に自然と育まれたリスペクトや交感がここにはあり、佐野元春自身がアレンジメントだけでなく、多くの楽器演奏を手がけている。ここにあるのは何より、共感の伝達だ、と佐野元春ならば言うだろう。もしかすると、これは佐野元春を含めた4人が、"佐野元春"を協同で再発見するプロセスだったのではないか、と僕は勝手な想像を逞しくもする。バックグラウンド・ヴォーカルで演奏参加している片寄明人の視線も似た意味で見逃せない。そして、今回起用されたTed Jensenのマスタリングを経て、細部までヴォーカルや各パートの分離がよく、つまり風通しと見晴らしのいい映像をもったサウンドは、彼らの旅の往く現代の光景を透徹した響きとソリッドな手ごたえをもって立ち上がらせている。

 アルバム『COYOTE』は、僕や君の、世界をめぐる物語である。コヨーテという動物が、ネイティヴ・アメリカンにとって聖なる存在であり、同時にトリックスターとみなされてきたことは、僕たちが佐野元春という20世紀最後の20年に出現したポップスターの存在の方法を思うとき、自然とヒロイックに符合する。ポップ・クリエイターとしての彼は、叙事詩的で象徴的なソング・ライティングを嗜み、作品がつねに受け手によって多義的に受容され、あるいは疑問を喚起するものであるための余地を注意深くつくってきた。つまりポップ・ソングというのは、まさにそうしたインタラクティヴな交通の場であり、そのための想像力がいつも必要とされるということだ。

 たとえば、彼はアイロニーと愛の寛容を同時に表現するし、人前に佐野元春として存在するときはいつもユーモアをまとって、しかし真摯に立っている。まったく、油断のならない男であり、同じ理由で愛すべき存在だ。だからこそ、彼は一面的な情実の世界に耽溺したり、一方通行のメッセージ・ソングを歌うことを一貫して巧妙に回避してきた。それは、かの"Imagine"という楽曲がたんなる夢想ではなく、とんでもなくアナーキーな思想であることを感じる者にとってまずは信頼できるサインだ。誤解のない、つまり利己的でない信頼を多くの人たちと築くことは難しい。だからこそ、佐野元春が採ってきた独特の道化的な作法は、ポップに身を翻しながら、そうした繋がりを温かく保持するのに有効だった。彼がコヨーテという登場人物の視点で提出したこのアルバムの旅も、そうした信頼ゆえの緊張感の線上にある。

 だから、このアルバムのクライマックスとして配置された「コヨーテ、海へ」という象徴的なトラックが、ユニヴァーサル・エッグを示唆しながら歌い始められるのも、とても自然で象徴的なことに思える。コズミック・エッグ、と言えば、さらにこの作品のテクストに近くなるだろうか。かのバックミンスター・フラーが唱えたコンセプトがここに残響する。
 新しい文明を生み出すためには、多種多様な差異を融合しながら、普遍的なリアリティを受胎して、世界と繋がりあっていかなければならない。"コヨーテ"はおそらく、そのようなことを、僕たち現代に生きる人間に歌いかけている。

 "愛"や"正義"が一面的な価値観のもとに暴力を誘発するこの現代において、"進歩"と"欲望"に行き詰ったその生活にも、"まだ見ぬ朝日がきっとどこかにあるのさ"と彼は歌う。それは"夢など"ではない。"この世界を信じたい"と、そうしてコヨーテは告げる。佐野元春のこれまでの作品の懐かしい断篇を記憶の連鎖のように綴れ織りしながら、海へと辿り着いたロード・ムーヴィーの主人公、すなわち聴き手は、そうして再会の約束とともに去っていく"コヨーテ"を通じて、共生の真実へと向かうのだろう。

 君と僕のあいだで、もういちど世界をみつめなおすこと。アルバム『COYOTE』を最初に聴いたとき、僕はそんなメモを書いた。ある意味でこれまでになく、ストレートな歌いかけのなされたアルバムだと思う。いままで以上に、佐野元春という存在を僕は身近に感じた。それはもちろんサウンドの分離がよく、言葉と音楽がクリアな視界をもつなかに、"コヨーテ"という男を介在させ、彼からの一人称や二人称の語りかけによって構築された物語だからこそだろう。たんにストレートであることは、ときに多義的な世界を歌うのに適切ではない、とソングライターは意識してきたに違いない。

 しかしここで、ひとりの神話的な話者を設定することで、ある意味ストレートなアティテュードを採った作家は、これまでの楽曲で自身が示してきたエッセンスやフラグメントの煌きをいくつも鏤め、それを聴き手と分かち合うことを愉しんでいるようにみえる。"もう一度/どうしようもないこの世界を/強く解き放たってやれ"、と"コヨーテ"は朗らかに呼びかける。彼の言葉は信じるに値するか? それは 個々の聴き手がそれぞれに判断すればいいことだ。こうしたコンセプチュアルなポップ・ソングを2007年に開示するソング・ライターがいることを、僕は誇らしく思う。

 "この荒地のどこかで 君の声が聞こえている"、と彼は歌う。
 "僕らにはいつも音楽がすぐそばにある"、と彼は語る。
 "君がここで倒れるわけにはいかない"、そう彼は告げる。

 朝がきた。音楽に世界を変えることはできる、と僕はもう一度信じる。

     *
 P.S.
 まったくの蛇足だが、T.S.エリオットの『荒地』は、西欧文明の優れた批評として評価されたが、そのような志向を強く打ち出して編集を施したのは年上の詩人エズラ・パウンドだった。『The Waste Land』(1922) の原テクストには、エリオットの抒情的でさらに私的な要素も表されていた。おそらく、佐野元春は『COYOTE』を編むときに、同じような指針をもっていたのではないかと僕は想像する。だとすれば、この傑作から零れていったかも知れない、どちらかというと批評的ではないソング・ライティングの魅力についても、いつの日か僕たちに顕かにしてほしいと思う。

 "HURRY UP PLEASE ITS TIME"