「Show Realの海」へと向かう男の神話
原田高裕

 佐野元春は、現代を「荒地」と見立て、視覚的なイメージを誘発するアルバム『Coyote』を創り出した。物語自体は、そんなにややこしいものではない。オープニングは、荒地の真ん中で景気よく始まる。主人公の男は、ため息のひとつやふたつ吐きながら、そしてたまには思い出のレイディオショーをプレイバックしながら、同志との邂逅を果たそうと遍歴を重ねる。しかし、物語は男が「うたた寝をしている間」に、突如としてバランスを崩す。不意の一撃。男は孤軍奮闘し、「世界はダレノタメに 僕はナンノタメに」と変革のノロシを上げるが、いかんせん、天気はどしゃぶりだ。そんな痛々しい光景の中を、男は生命の根源である海に向かって疾走し、この世の聖なるシンボルに向かって、再生を希求する。なかば強引に幕を引かれ、フェードアウトしてジ・エンドだ。リスナーであり観客でもある我々にとって、やはりどう考えても幸せに満ち足りた気持ちでエンドロールを迎えることはできない。どこか、くすぶりが残ってしまう。ハッピー・エンドがお好みの方々には、『Coyote』という作品には、きっと不満が残るであるだろう。

 また、作品の全体的なトーンとして「ダーク」な印象を拭えない。それは、ジャケットを見れば一目瞭然だ。『THE SUN』では、作者らしき白いシャツを着た人物は青い空を仰ぎながら、自己を解き放っている。それに対して『Coyote』は、厚い雨雲たちこめる下で、作者らしき人物は黒いジャケットを羽織り色眼鏡をかけ、どこだかわからないが「とある景色」を無表情に眺めている。その横で、アルバムの主人公はどこか楽しげにのんびりと食事をしている。その身に降りかかるであろうtragedyを、知ってか知らずか。そして、そんな二人の背景には、これまた灰色の海がひろがっている・・・。

 それもこれも、佐野元春が最初に設定した前提=「我々が暮らしている社会は荒地である」に起因しているのではないか。ちょっと待ってくれ。ひょっとしたら、この前提がおかしくはないだろうか?これは、佐野元春のシニカルでペシミスティックな「取り越し苦労」ではないのか?? ここで、ひとつアマノジャクな、根底をひっくり返すような仮説を設定するという(いささか単純な)手法で、『Coyote』を考えてみたいと思う。検証仮説は、以下のようにしたい。

「我々が暮らしている社会は決して荒地ではなく、今後も持続可能な成長を実現していく」。

 そんな希望に満ち溢れた仮説を意識しながら、ちょっと周りを見渡してみる。自分が暮らしているだろう「近未来」を想像してみよう。しかし、しかしだ。まばゆく輝くべき近未来像は、たとえばこんな風にならざるを得ない。

 少子高齢化の影響が生活レベルに浸透し、どこからか若者と高齢者の文句の言い合い・なすり合いが聞こえてくる。「ちゃんと老後の生活を保障しろ」「いや、あんたら上の世代がオレたちの社会をダメにした」。介護の現場では、国外からの人材が増え、コミュニケーションがチグハグになることが多い。老年の方々は、ただただエキセントリックに憤る。「日本人じゃなきゃ、ダメだ!」。一方、サービス業・製造業でも“グローバリゼーション”は、滞りなく進んだ。陰気なナショナリズムが、ひたすら内向きに増幅し、“内破 implosion”寸前にある/家族や家庭は、生活者にとって最後の砦となり、その「クォリティ・オブ・ライフ」を高めることに心血が注がれる。「ウチだけは、フツウでいたい。いや、ちょっとだけでいいから他より良くありたい」。その代償として、親は擦り切れ疲れ果て、緩々とではあるが慢性的なネグレクトに罹る。子供達は“知るには早すぎる暴力と性”に関する記号とイメージに蹂躙され、夜な夜なその衝撃と悦楽に浸る。「そんなことをしてはいけません」「じゃあ、あんたたちはどうなんだ」。大人は、とうの昔に子供に対して手本を示すことができなくなった。子供達は、男に女に成長する/男は女を必要とせず、女は男を必要としない。生活していくには、とりあえず近くにコンビニがあれば事足りるから。愛は干涸らび、ふと外を見ると、インスタントラブがあらゆる場所にギッシリと陳列されている。セクシュアリティと秘め事を謳ったサービスは隆盛を極め、惜しみない金銭と先端テクノロジーが投下され混濁し、男と女は互いの尊厳を理解することなく、ひっきりなしに恥部をまさぐりあう/かつては必要な品を消費していた人々は、投資論理の遂行のために、「欲望」そのものを浪費するように飼い馴らされた。かたや、必需品買うこともままならない人々は、自分の陥った境遇を憂い嘆き、恨み節をむなしく響かせながら人生を閉じていく/生活水準の差は、様々なdivide問題を生みだした。能力ある者はさらに能力を培い、能力を磨くチャンスのなかった者は、己の出自を忌み呪い、全てをご破算にする千年王国の建立を夢見る/テクノロジーは昔に比べると当然ながら高度化したが、その結果人々は「フレームの中に全てがある」と、真剣且つ悪気の無い無邪気な勘違いに陥り、有効に使えるであろう時間に、ひたすらディスプレイを見つめながらの暇つぶしに耽る/そんなこんなのある日、「国民平均寿命の劇的な低下」のニュースが駆け巡り、人々の心のざわめきは沸点に達する。・・・・・・


 さて、このような社会を「荒地」と言わずして、何と言えばいいのだろうか。

 この近未来像は、確かにネガティヴ過ぎる虚言・妄想かもしれない。もっとマシなシナリオを描くことは、いくらでも可能である。しかし、これだけはハッキリと言わせていただく。私は今、未来に関するイメージを楽観視する気持ちには、とてもなれない。拒絶する。何故なら、あまりに能天気すぎるから。物事には程度がある。よって、馬鹿になるにも程度がある。こんな世の中で、豊かで輝きに満ちたシナリオを描けというのか。それは、何卒ご容赦いただきたい。

 ここで、上記の近未来像を、先の検証仮説に照射してみよう。「我々が暮らしている社会は決して荒地ではなく、今後も持続可能な成長を実現していく」という仮説。・・・。そう、この仮説は明らかに誤っている。

 いま我々が暮らす社会は、やはり荒地である。そして、その荒廃の進行は、残念ながらこれから更に(加速度的に)拡がっていくようだ。そして、このように荒涼とした社会で露呈してくるのは、「生と死」に関わるイメージ及び現象だろう。単純に言うと、「生きるか死ぬか」という生物にとって最も緊迫する局面に、これから我々は数多く且つ身近な場面で接する事態が増えていくだろうということだ。それは、ここ最近のメディアを見聞きすると、そんなに違和感のあることではない。

 佐野元春は、正しかった。


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 元春はアルバム『Coyote』にて、死のイメージにまみれた「荒地」から、生命の根源である「Show Realの海」へと行き来するコヨーテ男を活写した。「生き延びるための術をよく知っている」男が、その性質が故に生と死のはざまで悪戦苦闘する姿を描いた。わが主人公は、両極端に張りつめてしまった現実を緩和させ、弛緩させ、そして和解させるために、その持ち前のキャラクター(どこか憎めない道化的佇まい)を総動員し、世界を“引っかき回す”ことで、その役割を演じた。この男の遍歴と時々のつぶやきは、アルバム『Coyote』の中に、ひとつの神話という形で刻まれている。

 アルバムの物語は、それだけで完結しているとは思えない。はじまりの前段、そしてエンディングの後に、まだまだ綿々とストーリーが紡がれているはずだ。『Coyote』で描かれたお話は、より大きなストーリーからの抜粋といっていい。そう、『Coyote』を聴いたリスナーが、前段や後段にあるストーリーを考えたり、「気高い孤独の君」を主人公にしたスピンオフを作ってみるなどによって、新たな物語が次々と生まれてくる。『Coyote』という神話から、様々なヴァリアント(異本)が発生するのだ。この神話群は、荒地を生き延びなくてはならない我々に、大いなる励ましを与える。「どんなときも、自分自身であれ。勝利あるのみ!」と。


この世に調和が訪れ、空は晴れ海が輝きだす日、コヨーテ男はその役割を全うし、作者から撃ち抜かれることだろう。その時はじめて、『Coyote』は完結するのだ。