「月と専制君主」クロスレビュー

太陽から海へ、そして満ちた月 青澤隆明

 不在を歌う男のまわりには、友愛と共感が溢れている。彼の声も身ぶりも、表情もしぐさも、かつてないほど自然にくつろいで、しかも自由にみえる。新しいアルバム『月と専制君主』では、鋭敏に時代を生き抜いてきた敬愛すべき歌たちが、それぞれの同時代の意匠を自然に脱いで、親しく現在に語らう。ここに響く友愛の愉楽と温かみは、ステイトメントやアティードとしての自由を超えて、彼自身の心境の自由を大らかに謳い上げている。

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 少しだけ、往路をふり返ってみよう。オーディナリーな人々の群像を、慈愛のまなざしで描いたアルバム『THE SUN』。「星の下 路の上」の呼び声に応え、孤独な詩人の旅をロードムーヴィーふうに綴った野心作『Coyote』。ソングライターの視野は、こまやかに普遍を捉えることから、続いて野生を想像させる冒険へと乗り出していった。
 人々の大地に立つ寛容の詩人は、太陽、神、夢、希望、存在について、大らかに、やさしく語りかけた。2000年代の前半を注いで入念に練り上げられた『THE SUN』の光は、これまで以上に広く、人々の生活の細部にまで注ぎこんでいる。稠密に描き出される人間の光景は多様だが、それらを照らす光の偏在は、静的ともいえるほど達観したものだ。太陽がみつめる、という俯瞰を象徴するその視野のもとで描き出された、ふつうの人々それぞれのストーリー。人生や生活の頌歌として、誰のものでもあり得る豊かな経験の歌たち。
 続いて、荒々しい叫びが、次なる物語の始まりを告げた。"コヨーテ"という謎めいた男からの、一人称や二人称の語りかけによって構築された、現代という荒野を駆ける一巻の旅の書である。前作とは強いコントラストを示す、主観的でときにヒロイックな呼びかけから、動態の表現が躍動し始める。それだけではなく、これまでの佐野元春作品の懐かしい断篇を、記憶の連鎖のように巧妙に綴れ織りさせながら、旅の主人公は海へと辿り着く。
 そこで、孤独な旅は途切れる。そのあとに響くのは再会の約束と、共生の真実だけだ。人にとって海は、大地の終わりでもある。巨大な行き止まりを前に、人は引き返すか、あるいは超えゆくしかない。その地点に臨んで、魂の真実をみせろ、と詩人は苦く告げる。神話的な話者の放つこの言葉は、はたして信じるに値するものか? 答えは聴き手それぞれのなかにあって、ただそこにしかない。

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 そうして、2000年代に劇的なコントラストをもつ2枚の新作を発表した佐野元春が、30周年を迎えて行ったのは、さまざまなかたちでのセレブレイションだった。アルバムに特化していえば、ベリー・ベスト『ソウルボーイでの伝言』をはさんで、新作『月と専制君主』をリリース。佐野元春一流の愛の詩が、十篇だけ選ばれ、時を超えて一堂に会した。
 佐野元春はここで、時代を鋭敏に彩り、あるいは予告していた作品を、現在の彼の声で祝福している。戦友との再会ともいうべき、誇らしい友愛に充ちたアルバムだ。それは、楽曲はもちろん、音楽家たち、そしてある意味では、各時代の佐野自身との和解でもある。
 これまでの作品を検証しながら、それをいまの心境で実践する。ソングライターにとっては、セルフカヴァーという方法をとった自作の再検証である。それぞれに時代を映す公的なメッセージでもあった歌たちは、「彼」の現在の内面へとまなざしを向ける。広く人々に対して放たれた歌は、そうして創り手、歌い手自身の心へと、温かな帰還を果たすことになる。
 もちろん、すぐれたソングライターの所産であることを証しするように、個々のポエトリーが主題としてあぶりだした数々の問いかけを、現実はいまも凌駕してはいない。彼が言葉に託した予兆や警告は、いまも過去のものではないのだ。ソングライターはしかし、それを彼自身の切実として改めて噛みしめる。そして、シンガーが、現在の声で誠実に、それを愉しげに歌う。言葉と音楽が有機的に充ち溢れ、オーガニックといってよい出で立ちで、しっかりと素足で地面に立つ。友人たちが集い、アンサンブルにそれぞれの時間と成熟を重ねていく。そして、歌が帰ってくる。彼自身のもとへ、聴き手ひとりひとりの内心へ。
 共感と観察の日々、さらに孤独な個の旅からの帰還。そうして、ここに訪れた『月と専制君主』の有機的な成熟は、過去の創作の真実を、いまいちど、そして何度でも、自然と現在に響かせる。楽曲はある意味、揺れ動く時代の緊張から解放されて、さらにのびやかに自らの言葉を口ずさんでいる。"言葉を知らない小鳥のように"、そう、まさしく"彼女が自由に踊るとき"のように。そこに響くのは、もはや叫びでも宣言でも、呟きでも囁きでもない。気心の知れた語りが、歌のかたちで穏やかに息づく。そうして示されるのは、慈愛でも諦観でも、戦いでも安息でもない。言葉それ自身の重量だ。本来の内実がそっと引き出され、力みがなく、驚くほど気取りもない。たとえば、"小さな娘"というようなフレーズがさりげなく、現代日本のポップソングで歌われたことはあっただろうか?

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 しかしさらに大切なのは、このアルバムが以上のような脈絡なく、突然この場所を訪れたときにも、親しげに語りかけるものであるということだ。リリックの生命力と今日的存在感に関しては、佐野元春というソングライターが、いつの時代も、時代のただなかで普遍をみつめて続けていたというシンプルな事実が、改めてつよく実感される。十篇の選詩集がいま、どのような共感を呼び覚ますかは、聴き手のライフによってもさまざまだろう。
 サウンド・プロダクションについては、つねに自らの直感によって、時代の音を体現し、あるいは予告してきた佐野元春である。セルフカヴァーの内実にふさわしい有機的で親密な響きの質感を醸成しながら、同時に2010年代の時代性を鋭敏に映し出している。回顧のノスタルジーによりかかるのではなく、現在のサウンド・プロダクションを戦略的に構築している。プロデューサーとしての佐野元春は、ソングライター、アレンジャー、そしてシンガー、プレイヤーとしての佐野元春の本質を、当然のことながら直観的に体得しているし、誰よりも客観的に見通している。楽曲の個性を際立たせていたエレメンツは記憶のままに、新しいアレンジをまとって、作品それぞれに新しい魅力で微笑みかけてくる。そうして音楽そのものが、リヴィング・ルームであるように、聴く人を温かく招き入れる。
 有機的な響きの質感と温度をもって、アンサンブルそれぞれの声部をくっきりと息づかせた立体的な音像が、深みと奥行のあるアコースティックな佇まいを生む。佐野元春の現在の声と、長年の音楽仲間との対話の成熟がよき調和をもって、豊穣な演奏に結実している。プレイヤーもリスナーもリラックスした心境で、自然に交感しあう余地を保つことができる。そのための鋭敏な選択のひとつは、Tボーン・バーネットやジョー・ヘンリーの音づくりに貢献するギャヴィン・ラーセンをマスタリングに起用したことにも顕われている。
 だからこそ、ここに集められた十篇との再会は、旧知の友人たちと懐かしさを共有するだけでなく、互いに時を刻んできた健闘を密かに称えあうように、それぞれの内心にも自然に響いてくる。それは、この作品をともに創り上げたミュージシャンたちの友愛についても、それぞれの作品とともに生きてきた聴き手ひとりひとりの歳月にとっても言えることだ。そして、新しくこれらの楽曲に触れたリスナーにも、この新しい懐かしさ、あるいは懐かしい新しさの光景は、丁寧な手仕事の感触とともに、親しく共有されるものだろう。
 その意味で、アルバム『月と専制君主』は、佐野元春、2011年の新作というにふさわしい珠玉の作品集である。安らぎよりも、なぐさめよりも、その率直な誠実さのほうに僕は惹かれる。これまでにも増して、佐野元春というソングライターの内心が、穏やかに綴られた、インティメイトなアルバムだと思う。
 このナチュラルな充足のさき、2010年代の日々をかけて、佐野元春はどのような季節へと踏みこんでいくのだろう。友愛のワルツを踊りながら、稀代のソングライターの叡智と衝動は、どのような挑戦を準備しているのか。いずれにしても大きな冒険が僕にはつよく予感される。
 満ちた月のあとに、真新しい朝は訪れる。やがて、新月がめぐってくる。