“不自由さが増していくだけの街の雑踏の中で飄々と生きる、傷だらけだけどタフなソウル禅モンク”
“ロック・ミュージックという魔法の力で心の空に虹を描く、ロマンティックでリアリスティックな実存主義者”
――職業柄、初めて聴く音楽の世界観を無意識のうちに言語化(キャッチコピー)しようとしてしまうが、『今、何処』を初めて聴いたとき、私の中から出てきた言葉(ファースト・インプレッション)が上記のものになる。禅、実存主義などというワードが出てきたのも、「過去はもう過ぎたこと、未来はまだ来ていない(からわからない)。わかっているのは今、この瞬間だけ生きていることを実感できる。だからその瞬間、瞬間の連続を生き続けることは永遠を垣間見ることで、明日への希望でもある」――というメッセージを感じ取ったからだ。
小説や映画、音楽など、ある種の優れた芸術作品に触れたとき、得も言われぬカタルシスを感じることがある。ハッと目覚めさせられて、日々過ごす日常の中で少しずつ薄くぼんやりと隠れていってしまった本質的な自己が現れ出る。その本当の自分と向き合うことになる。自力ではなかなか到達しづらい、自らを深く省みるチャンスが与えられる。ボブ・ディランの音楽に触れたときによく感じられる――「それでアンタのほうはどうだい?」と問いかけてくるあの感覚だ。『今、何処』を聴き終えた後――アルバムを締めくくるラストの不気味なタイトル・ナンバーの余韻から醒めていくうちに、ポップ・ミュージックの魔法が解けていくうちに、久しぶりにその感覚を味わうことになった。
先行リリースされたアルバム『エンタテイメント!』は、1曲ずつがキラキラしていて輪郭がクッキリと明確なシングル曲集、一話完結の短編集という趣きがあるのと比較して、『今、何処』のほうは1ページずつページをめくって物語のその先を読み進めていくかのような長編小説、長編映画にも似たコンセプト・アルバムという印象を受ける。シリアスな詩世界を描きつつも、ミドル・テンポをキープしながら、クールでグルーヴィー、シュアでシャープでまろやかなバンド・サウンドと、感情を剥き出しにすることの無いクールな歌声は、一貫して慈悲に包まれているところも今作の特長だといえるだろう。また、それら各楽器が鳴らす音と歌が一体化してひと塊になったバンド・アンサンブルの完成度にも驚かされるし、一聴気づきにくいが彼らにしか表現し得ない独自の驚異的なグルーヴ感に包まれると勝手に身体が動いてしまう。いつまでも聴いていたいと思わされる抗い難い魅力、魔法がそこで鳴らされるバンド・サウンドには宿っている。それぞれの楽曲の中に精緻に編み込まれたさまざまなコントラストが我々聴く者の知覚を知らぬ間に拡張していき覚醒を覚え、そのマジックに我々は能動的に喜んで掛かる。繰り返し魔法を掛けてもらいたくなる衝動を感じ続ける。
その魔法は、次々と日常を覆い尽くすノイズの数々を丁寧にひとつずつ取り除いて、本当の現実、真実をネイキッドに晒し出す。あるいは、薄い膜のようなバリアが際限なく次々と張られて、心の視界がぼんやりとして見通しがどんどん悪くなるばかりの日常のなか、その膜を次々と取り除いてくれて、曇りなきレンズとバシッと合ったピントに調整してくれる。また、プールで泳ぐとき水中で感じられる、地上のそれとは明らかに違う感覚――ある種の瞑想状態に入り込んだかのような特異な感覚も提供してくれる。
今という時代、社会、世界に映し出される街の日常のさまざまなスケッチの中に、冴えわたる詩情に溢れた美しい表現や心の奥底に真っ直ぐ投げ込まれる強烈なパンチライン、哲学的思索の果てに見出される深遠で真実の響きをビシバシと感じるアフォリズム、そして短くシンプルかつ明確な強いメッセージがドーナツ盤の長さの楽曲たち全てにシームレスに織り込まれている。そんな次々と放たれる言葉の数々は、継続的に受け続ける静かな衝撃ともいえるもので、聴く者は独特の心地よさも感じられる忘我の境地に連れていかれる。そして、気が付かないうちに少しずつ、少しずつロボットのように同じ動作、同じ考え方、同じライフスタイルへとハメ込まれていっている不気味な現実社会に生きるなかで、自由に考えたいことを考えて、自由に動きたいように動いて、自由に夢を見ること――その本能を呼び覚ましてくれる。忘れかけてしまった己の魂を揺り動かして起こしてくれる。
人里離れた山に籠るのではなく、大都会の俗世間から智慧(ストリート・ウィズダム)を導き出すストリート詩人、街の哲学者と評することができるボブ・ディランやルー・リード、レナード・コーエンが創造した至高のポップ・ミュージック・アート作品たち。それらの作品から受けた同じ衝撃と気づき、覚醒、救済、治癒、勇気、そして希望を私は『今、何処』を聴いて受けた。