何の関係があると言われそうなのだが、若い頃フランク・シナトラの「My Way」が嫌いだった。あのナルシズムに酔ったような情感過多な歌い上げが鼻もちならなかった。それに輪をかけてスナックなどのカラオケであの歌を歌う年配の男性が嫌だった。ああいう大人にだけはなりたくないと思っていた。あの歌は功成り名を遂げた成功者がそのことに浸っている歌だ。自分の人生にしか関心がなく、他人の幸福や周りの人たちがどのくらい傷ついているかまで思いがめぐらない。そういう人たちの声が聞こえないエゴイストの自己陶酔の歌だと思う。ただ、歌そのものを否定する気がないのは、エルビス・プレスリーの生涯を描いたドキュメンタリー映画で、若い頃の見る影もなく太ってしまった彼が思うようにならない身体を持て余しながらピアノの前に座りかすれた声であの歌を歌う最後のステージを見て号泣してしまったからだ。そこには自己陶酔ではなく戦場で力尽きそうになった戦士の聖なる自己慰安ともいえる神々しさがあった。何でこんなことを書いているかというと佐野元春 & THE COYOTE BANDの新作「ENTERTAINMENT!」に「道」を歌った曲が2曲あったからだ。アルバムを聴きながらふっとあの曲を思い出してしまった。
アルバム「ENTERTAINMENT」は、これまでの彼のどの作品とも違う。それは言うまでもなく2019年から2022年という時代を背景にしていることが大きい。シンガーソングライターの作品にはその度合いこそ異なれその人自身の日々の実感が綴られている。コロナ禍が収まりかけたかに見えた時に突如戦争が始まるという予想もしていなかった異常な時代に一人の表現者として思うこと。最初に配信された「愛が分母」の“残酷なことばかりさ”は、まさに2022年の世界を予感していたかのようだ。ライブが出来ない、人が集まることや声を出して歌うことが罪悪のように語られる、音楽の成り立ちそのものが否定されるような状況で何を歌うか。こんな時代に「エンターテインメント」はどうあればいいのか。その答えがこのアルバムなのだと思う。
世の中にはお手軽な「エンターテインメント」と称した「娯楽」が溢れている。アルバムのタイトル曲を借りれば“見かけ倒しの愛と太陽”がこれみよがしに語られる。でも、裏側では醜い駆け引きや足の引っ張り合いが横行している。その中で”落ちてゆく星“もあれば”堕ちてゆくあの人“もいる。何度目かに聴いている時にエルビス・プレスリーを思いだしたのはそんな歌詞が触発したのかもしれない。ただ、佐野元春はその世界を否定していない。「エンタテインメント」を肯定し、信じている人間として胸を痛めている。“It‘s just entertainment”。「たかがエンタテインメント、されどエンタテインメント」。彼にとっての「エンタテインメント」。それがこのアルバムなのだと思う。
アルバムの”軽さ“が素敵だと思った。曲が書かれたのはコロナ禍の緊急事態宣言のさ中だと思う。でも、アルバムにはそうした切羽詰まった暗さや重さはない。ロックンロールはもちろんのことスカやレゲエ、そしてジャズやブルース。どんなリズムも楽しめるスキルの高さ。アスファルトをスキップをするように跳ねる軽さ、街を駆けぬけるようだった初期の疾走感にはなかった両足で舗道を確かめているような呼吸感が新鮮だった。“気絶して死んだように眠っている”街を歩き、ビルの間を吹き抜ける風を感じている。街を愛し、街を信じている元City Boyがコロナ禍の街で思うこと。“いつかきっと朝日が満ちる、いつかきっと夜が明ける、いつかきっと願いがかなう”。“いつか世界は息を吹き返す、力を節約しとこうぜ、夢を節約しとこうぜ”。「この道(2022mix version)」も「街空ハ高く晴レテ(Alternative version)も「合言葉(Save It For A Sunny Day)」も足取りは軽い。そう、まだチャンスはある。「エンタテインメント」というのは「希望」である。でも、それを「見かけ倒し」に歌わない。それがこのアルバムなのだと思う。
自分の無力さに打ちひしがれるという状況は、2011年の東日本大震災の時にも経験した。あの時と今と決定的に違うのは「世界」が同じような困難に立ち向かわざるをえないことがある。“誰も望まないような未来に迷い込んでしまった”世界との距離感の近さ。「新天地」と「東京に雨が降っている」はそんな歌だろう。“矛盾に満ちた惑星”と“雨に降られている世界”を象徴する「花」と「雨」。「花はどこへ行ったの」や「激しい雨が降る」などの古典をあげるまでもなく「希望」や「困難」を象徴する言葉がさりげなく使われている。「希望」を歌うことはその反対の「不幸」や「困難」に目をつぶることではない。そのことを引き受けつつ何を歌うか。このアルバムの特徴の一つは難解な比喩やトリックに満ちた現代詩的な言い回しが使われてないことだろう。どの曲も平易で日常的な言葉で歌われている。その最たるものが「悲しい話」ではないだろうか。
後半に向けた起承転結という意味でも「悲しい話」は、アルバムの中でも重要な曲だ。“悲しい話”や“でたらめな話”、“むかつく話”という直接的な表現や“もうたくさんだ”、“聞きたくないんだよ”という率直な感情の吐露。リズムとフィンガー・スナップにレイ・チャールスの「旅立てジャック」やエルビス・プレスリーの「トラブル」を連想した。自分のことだけ歌っているのではない。“みんなは一体どこへ行くんだろう”と歌っている。「みんな」の中に「少年」も含まれている。なぜそういう直接的な感情を言葉にしたのか。それは「少年は知っている」への伏線なのだと思う。コロナ禍で未来を奪われ出口を見失っている最大の被害者が十代の若者たちではないだろうか。光の射さない闇の中でたった一人の国旗を掲げて踊っている少年に向けた軽やかなアジテーション。“魂を焦がしたまま”“好きなだけ世界を貪って”“この夜の息の根を止めてやれ”である。それでいてそうした少年たちが“危うい力に飢えている”ことも見抜いている。コロナ後に世界がどうなってゆくのか。その鍵は少年たちが握っている。ロックンロールの「少年性」への世代を超えた信託。それがこのアルバムでもあると思う。
話を「My Way」に戻そう。あの曲にはその先の「道」がない。その人が歩いてきた「道」に過ぎない。アルバム「ENTERTAINMENT!」の最後は「いばらの道」だ。英語の表記は「All Our Trials」である。全ての私たちの試練、とでも訳せばいいのかもしれない。“私たち”である。少年も大人も老人も誰もが一度は通る道。いつか通る道でありいつか来た道。それは“悲しいことも忘れ”“涙の跡”が消えてゆく浄化への道だ。3曲目の「この道」の先に続くのが10曲目の「いばらの道」なのではないだろうか。「この道」の中の口笛は「聖なる夜に口笛吹いて」を思い出させた。それが彼にとっての「エンタテインメント」なのだと思った。
アルバム「ENTERTAINMENT!」は見せかけの「娯楽」のアルバムではない。誰もが「いばらの道」を歩いている。足取りは重くなっていない。つまり、佐野元春もあなたもそして僕も「つまらない大人」にはなっていないということだ。