佐野元春『今、何処』

評論 ─ 佐野元春 & ザ・コヨーテバンド『今、何処』『今、何処(Where Are You Now)』と『ENTERTAINMENT!』を巡るテキスト

カタスロトフィーのただなかへ──『今、何処』を聴いての所見

原田高裕

過ぎ去っても 終わっていない
──エリアス・カネッティ

 佐野元春は預言者だ、こんな意見を耳にすることがある。リスナーや論者が言うには、歌詞やアルバムの内容が未来を予見してきた、時代を先取りしてきた、予知能力があるんじゃないか、ということらしい。だが、まぁそんなことはあり得ないだろう。しかし、佐野元春が「予言しているようにみえる」のは確かなことだ。

 表現者や作家は、私たちが忘れてしまったこと、忘れようとしていること、見て見ぬふりをしていることにあえてまなざしを向け、そこに学ぶことで“発想のバネ”を得ようとする習性を持つ。私たちが忘却の果てに捨て去ったものをあえて引っぱり出し、注意深くカタチを変えた上で再び私たちに提示し、想起を促そうとする。私たちが忘却しようとするものは、歴史の流れの中で何度も何度も繰り返し現れてくるので、結果として表現者や作家は世間からは預言者のようにみえてしまうのだ。

 ドイツの文化学者アライダ・アスマンは「想起することは表現することを必要とする」と指摘する。過ぎ去ったものを今に単純に再現することは不可能であり、現在に持ち込むには変形を要することを踏まえた上で、芸術家はメディアの可能性や限度に対して反省的に取り組むことに経験豊かであり、過去を現在化する、その行為自体を反省するにあたり、特に重要な役割を果たすとしている。

 佐野元春をはじめとする表現者や作家が予言しているようにみえるのは、作品の核に想起の力があるからだ。忘れてはいけないことは忘れてはいけない、想起し対話からはじめてみよう。こんな申し立てを佐野は昔っからずっと続けてきた、事ある毎に、何度でも、時には私たちに裏切られながらも、くじけず、執拗に。そう、とにかくしつこいのだ、佐野元春は。

 社会の変容と歩調を合わせるように、佐野が発する想起の力のうごめきは近作『BLOOD MOON』『MANIJU』で特に顕著になり、『今、何処』に至ってついに極みへ達したようだ。佐野は「『今、何処』が最後のアルバムになってもいい」という旨の発言をしているが、それは本音だろう。もし、『今、何処』以上に想起の力をロックアルバムという形式に注ぎ込もうとするならば、それは破綻するに決まっている。将来に新作アルバムがあるとすれば、『BLOOD MOON』『MANIJU』『今、何処』とは異なるマナーで創られることになるだろう。

 想起することはそんなに必要なことなのか、忘れることで前に進むほうがいいこともあるのではないか、そもそも想起は忘却が前提にあり想起すること自体を良いものとするのはナンセンスだ──そんな声もあるだろう。しかし、それは駄々をこねている幼児のわがままのように聞こえる。

 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、大衆化した人間の心理の特徴として、「自分自身の無制限な膨張」と「存在の安楽さを可能にしてきたすべてのものに対する徹底的な忘恩」の二つを挙げ、それは「甘やかされた子供の心理として知られている特徴だ」とした。アメリカのジャーナリストの一人ウォルター・リップマンは、「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである」と指摘した。

 忘恩と固定観念で生じた間隙を縫って、蛮行に手を染める連中がいる。中傷、魅力的だが曖昧な言葉使い、転移、推薦広告、一般庶民になりすませ、「バスに乗り遅れるな!」、カードスタッキング、人格攻撃、不安を煽れ、デマ、反復、スピン、ロビーイング、パブリックディプロマシー、ソフトパワー、なんでもござれ、いつもながらの常套手段、そして暴力。


私はあの男の顔に吊されている
あまたの「クラウド」を
一つひとつめくってみました。
最後のクラウドをめくった後
あの男は軍隊行進調の節回しで
こんなことを歌い出しました。

俺は出世したい
あいつも平伏す
エグゼクティブになりたい
俺は世界中のボスになりたい
俺はこの世を統べる者、
かつて世界を支配したような

いますぐやりたい
いますぐなりたい
世界に君臨したい

だって、
バレエのダンサーにはなりたくないし
父ちゃんの店なんかで働きたくないし

私は諦めのため息を一つ漏らした後
一つ、またひとつと
クラウドをあの男の顔に戻しました。
もう手遅れだったのです。


 加藤周一は、権力の狡獪な手口としての「なしくずし」、そして「現実主義」について明敏な整理分析を行った。曰く、「なしくずし」の過程は既成事実の積み重ねであり、第一、計画にもとづき意識的に行われる場合もあり、第二、非計画的・無自覚的になされる場合もあり、第三、権力の内部に意見の対立があるときは、両者の混合する場合もある。いずれにしても、「なしくずし」過程のそれぞれの時点において、状況の変化は小さい。小さな変化を問題として、根本的な権力批判を展開したり、大がかりな抵抗運動を組織することは困難である。既成事実の積み重ねは、政策立案者にとって、多かれ少なかれ与件としてあらわれ、その時点における政策選択の幅を狭くする。その狭い幅の承認が政治上の「現実主義」であり、「なしくずし」の過程は、必然的に「現実主義者」を生みだし、「現実主義者」に支えられて進行する。

 そして、加藤は喝破する。一社会が「なしくずし」に破局に近づいてゆくとき、破局はいつでも遠くみえる、と。

 『SWEET 16』三十周年盤で、佐野は想いを明かした。曰く、アルバム『SWEET 16』はナイーブなままではいられなくなった“戦後民主主義の日本”をイメージして制作され、佐野が36歳の時に作った個人的な「青春」アルバムであるのと同時に、思春期を迎えた戦後民主主義日本をスケッチした「時事的」なアルバムでもあった、と。このようなテーマがポピュラー音楽に合っているのかわからない、人々の関心はそんなことよりもっと日常の営みにあることはわかっている、でもほかの人がやっていないユニークな表現をしてみたかった、と。

 明日の日本社会でも、現実主義者による「なしくずし」は計画どおりに進むだろうし、破局は遙か彼方の遠く遠くの霞の先にあるようにみえることだろう。佐野によると、『SWEET 16』と『今、何処』は大きく共鳴し合っているという。

 『今、何処』で一番ブチ上がる曲は「水のように」だ。個人的にはアルバムのハイライトであり、大きくしなっている部分でもあると思っている。なにはともあれ、とにかくアガる、時代の最前線で渦巻くロックンロールグルーヴがある。それだけでもうオーケーなんだけど、野暮は百も承知で文を重ねてしまうことを許してほしい。

 「Be Water(水になれ)」とは、武術家・俳優、そして哲学者でもあったブルース・リーの言葉であり、辿り着いた境地ともいえる。生い立ちが故にマージナルな(どちらでもあり、どちらでもない)存在だったブルース・リーの生きざまは、人種、思想、そして社会における「分断」に苦悩する人々に前向き且つ実用的な指針、処世術を示した。通称ロストインタビューでこう語っている。「形を取り去れ、型を捨てろ 水のように 水はカップに注げばカップの形になり ボトルに注げばボトルに 急須に注げば急須になる 水は流れることも砕くこともできる 友よ、水になれ」

 2019年、香港で逃亡犯条例改正案に反対する若者を中心としたデモがおこった。各地の壁一面に、連帯のメッセージが記された数々のポストイットが貼られ、その中に「Be water, my friend」と書かれたものが多数あったという。とある民主活動家は、「水は流れ、動き、時に分散しても、また新たな形を作ることができる。水になれという哲学が、たとえどんな状況にあっても、常に解決策を考え、異なる方法でアプローチしていくという態度へと浸透していった」と報じた。

 「水のように」を聴く時、私はその最新鋭のグルーヴに身を委ねながらも想起し考えを巡らせる。たとえば、香港、台湾、ミャンマーをはじめとするアジアのこれからについて、償いと許しについて、なしくずしに抗する方法について、一皮剥けば幼稚な現実主義者たちにどう向き合うかについて、老いる戦後民主主義日本の難局をどう引き受けるかについて、広島、長崎、沖縄について、私たちが忘れてはいけないこととは何かについて。まだ間に合いますように。たとえば、こんなことをね。みんなはどう?

 イマ ココドコ ココドコ ミンナイマドコ イマ ココドコ ココドコ ミンナイマドコ イマ ココドコ ココドコ ミンナイマドコ…

今日も夥しいシークレットメッセージのパルスが駆け巡る。私の耳元で、そしてあなたの耳元でささやく。いなくなってしまった人たちの耳元で、今は母の水に浮かぶ幼子たちにささやく。たまに、

ロックンロール イズキング!

といったバグったパルスも宙を漂っている。過去はあてにできないが、私たちには忘れてはいけないことがある。大事なことを喚び起こすときは、己の周りだけを見るな、世界を見よ、宙に浮かべ、そして銀の月と同化せよ。そうすることで、あなたの目と心に覆い被さってくる玉石混淆の「くぐもり」は雲散するはずだ。裸の目が開かれていく、さよならメランコリア──今、ここ何処、みんな今何処?

  *

 『SWEET 16』三十周年盤で、佐野は次のようなことも述べている。「世間が酩酊しているなら、こっちはもっと酩酊して対抗する。世の中の問題を避けるのではなく、その中央を突破するかのようにソングライティングで挑む。それが最新アルバム『今、何処』にも通じている流儀なのだ」と。この 「酩酊には酩酊で、中央を突破していく」という流儀は、表現者・作家としての晩年性(レイトネス)に関わってくるはずだ。

 故国喪失者=エグザイルだった比較文学研究者エドワード・サイードは、『晩年のスタイル』の中で、作家の晩年性についての論考を重ねた。訳者の大橋洋一が手際よくまとめた文を、以下抜粋する。「レイト・スタイルとは抵抗のスタイルでもある。時代とのズレを意識しつつ、時代に抵抗しつづけること、円満な和解と完成と達成に逆らいつづけること、これがレイト・スタイルである」。大橋はさらに続ける。「文化史や美術史において、晩年の円熟した作品(あるいは壮年期を過ぎて力を失った作品)と目されているものは、視座を変換したり仔細に検討してみると、まさにそこに完成を拒む矛盾と葛藤に満ちたカタストロフィーとしての晩年のスタイルが立ち上がってくるのではないか」

 デイヴィッド・ボウイは、自身が創りあげたロック音楽史上に燦然と輝く傑作アルバムのジャケットに、あろうことか、こともあろうに大きな四角の白い紙をベッタリと貼りつけ、その真ん中に「The Next Day」と書き記す(加えて“HEROES” という徹底ぶりだ)ことで晩年の仕事をはじめた。そして、いま私たちはどこにいるのだろう? と歌った。

 偉大ではあるが“おかしな”作家たちのレイト・スタイルを思い浮かべる時、「カタストロフィーを避けず、カタストロフィーのただなかへ自爆して行く」というイメージを喚起せずにいられない。「酩酊には酩酊で、中央を突破していく」という佐野の流儀は、「カタストロフィーのただなかへ」という態度に沿っており、『今、何処』は社会の難局や自身の大詰めへと立ち向かう佐野元春がこれから創っていくであろう晩年の仕事の兆しが顕れているアルバムといえないか。私は密かにそう考えている。


【引用元・参考資料】

  • 『想起の文化』アライダ・アスマン著 安川晴基訳 岩波書店 2019年
  • 『思想』特集=想起の文化──戦争の記憶を問い直す 岩波書店 2015年
  • 『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット著 佐々木孝訳 岩波文庫 2020年
  • 『世論』ウォルター・リップマン著 掛川トミ子訳 岩波文庫 1987年
  • 『プロパガンダ [新版] 』エドワード・バーネイズ著 中田安彦訳 成甲書房 2010年
  • 『TENOLOGY』10cc Universal Music Operations Ltd. 2012年【附記】ブックレット内「I Wanna Rule the World」歌詞頁を参照した
  • 『言葉と戦車を見すえて 加藤周一が考えつづけてきたこと』小森陽一/成田龍一 編 ちくま学芸文庫 2009年【附記】大江健三郎は、この本を「戦後の名著、世界的な名著と言ってよいもの。大江がいま大切に考えていることが、すべて書かれているといっていい」と評している(『朝日新聞』2016年5月11日朝刊より)
  • 『SWEET16 30th Anniversary Edition』佐野元春 ソニー・ミュージックレーベルズ 2023年
  • 「ブルース・リー 友よ 水になれ」 NHK総合 映像の世紀バタフライエフェクト 2023年
  • 『シークレット・メッセージ 35周年記念盤』エレクトリック・ライト・オーケストラ ソニー・ミュージックレーベルズ 2018年
  • 『晩年のスタイル』エドワード・W・サイード著 大橋洋一訳 岩波書店 2007年
  • 『大江健三郎と「晩年の仕事」』工藤庸子著 講談社 2022年

(了)