佐野元春『今、何処』

評論 ─ 佐野元春 & ザ・コヨーテバンド『今、何処』『今、何処(Where Are You Now)』と『ENTERTAINMENT!』を巡るテキスト

瞬間と永遠の共存 ー世代を超えたエヴァーグリーンなアンサンブル

萩原健太

 防ぎようのない天変地異、未曾有のパンデミック、思いがけず勃発した戦争…。揺らぎまくる今の時代。メディアやネット上に真偽ない混ぜにしながら溢れかえる情報の洪水の中で、誰もが惑っている。

 その渦中へチューン・インするかのような短い導入部。それを切り裂いてカットインしてくるドラム・フィル。そして、数小節ごとにめまぐるしく転調を繰り返しながら、浮遊するように、相対する価値観の狭間に揺れる心のさまを綴る「さよならメランコリア」へ。冒頭からいきなり、佐野元春とコヨーテ・バンドはスピード感たっぷりにぼくたち聞く者の心をつかんでみせる。アルバム『今、何処』の幕開けだ。

 2022年4月、本作に先駆けて配信リリースされたアルバム『ENTERTAINMENT!』は、佐野元春らしいポジティヴなメッセージが印象的な1枚だった。今、この危うげな世界で、それでもいつか世界が息を吹き返すときを夢見ながら、悲しい話なんか忘れて、改めて愛という大切なものを試そう。新天地を、雨の向こう側を、夜明けを、願いがかなう日を思い描こう。君を迎えに行こう…。忌まわしきパンデミックのただ中、その荒波を乗り切るために必要な力を『ENTERTAINMENT!』はぼくたちに分け与えてくれた。

 そんなアルバムと対を成すように、3カ月というきわめて短いインターバルでリリースされた本作『今、何処』は、より真摯な佐野の眼差しに貫かれた仕上がりだ。もちろん、佐野らしいポジティヴさはここにも通底してはいる。が、表現が内省へとさらに深く分け入った。俯瞰した視点と豊かな成熟。と同時に、でも今これを伝えなければ…という青く切迫した情熱。相反する両者がどの曲でも刺激的に、有機的に、交錯している。

 何より素敵なのは、ここに貫かれているメッセージがすべて“君”のことであり“ぼく”のことだという点だ。国がどうあれ、時代がどうあれ、政治がどうあれ、すべては“ぼく”と“君”から始まるということ。  フェイクに惑い、邪悪なプロパガンダを浴びせられ、右にぶれ、左によれ、分裂し、奪い合い、監視し、監視され、SNSの罠に囚われ、日々に埋没し…。でも、けっして諦めることなく、君が君でいられるために、君が自由でいられるために、ぼくは大切な何かを守るという静かな決意。それら、まさに今の時代でなければ生み出し得ないメッセージを、佐野元春は歌詞によってだけでなく、ロック、ソウル、ジャズなどを巧みに融合したコヨーテ・バンドとの世代を超えたある種エヴァーグリーンなアンサンブルを武器に、音楽的/サウンド的に編み上げていく。それがまた素晴らしい。

 瞬間と永遠の共存。デビューして40年以上、着実に歩みを進めてきたアーティストにのみ可能な離れ業を、今、佐野元春は確かな手応えをもってやってのけてみせる。今の時代を生きるベテラン・アーティストとしての使命を全うしてみせる。  前述した「さよならメランコリア」の、どれがこの曲のキーなのか、それすらあえて聞く者に悟らせないかのような展開。その、どこか不安定で、でもそれゆえに耳を惹きつける音楽的感触は本作の全編に散りばめられている。歌い出しのコードがキーの主和音、いわゆるトニック・コードでスタートしない楽曲も多い。かつての佐野作品で言えば、「グッドバイから始めよう」とか「ヤングブラッズ」とかと同様の方向性。本作収録曲だと、「銀の月」も「クロエ」も「斜陽」も「冬の雑踏」も「水のように」も「明日の誓い」もそう。その効果を言語化するのはむずかしいのだが、そこに漂う、どこか都会的な洗練と、軽い難解さのようなものが『今、何処』というアルバムの手触りを決定づけている気がする。

 アルバム終盤に向けて、佐野とコヨーテ・バンドのメッセージはよりポジティヴさを増していく。理想を冷笑している場合じゃない、明日に向かって一歩を踏み出そう、と。そして、自分たちの今いる場所を再確認するラスト・チューン「今、何処」を経て再び、刹那ではなく、永遠のレボリューションを乞う「さよならメランコリア」へ連環し…。

 本作『今、何処』の英語タイトルである『Where Are You Now』というのは、なんとも意味深なフレーズだ。“Where are you”、つまり“あなたはどこにいるのか?”。旧約聖書の創世記、エデンの園で初めて罪を犯し神に背を向けたアダムとイヴに対して天上から神が投げかけるひとことだ。ご存じの通り、アダムはこの問いに正面から対峙せず、そのときから人間の迷いが始まってしまったわけだけれど。  そう思うと、本作に収められた、“エデンの園”ならぬ「エデンの海」という曲がまた意味深に響く。人間の罪を佐野元春流に綴った1曲。人は愚かだし、永遠に続く幸福もない。だからこそ今、この瞬間に光を放て、すべての闇を照らせ、と。

 どこにいるのか。  その問いかけを自らに投げかけることからしか明日には向かえない。どこにいるのかわからない神を無闇に、安易に探し求めるのではなく、自らの在り方をまっすぐ自問する中にしか答えはない。佐野元春とコヨーテ・バンドは本作でそんなことをぼくたちに伝えようとしてくれているのだろうか。