佐野元春『今、何処』

評論 ─ 佐野元春 & ザ・コヨーテバンド『今、何処』『今、何処(Where Are You Now)』と『ENTERTAINMENT!』を巡るテキスト

悲観に抗う力

片寄明人

 自宅から数分の場所にあるパーキングでシェア・カーを借りて、このアルバムを大きな音でかけながら、あてもないドライブに出かけた。

 19歳で免許を取り、35歳でクルマを手放した。それから十数年、いまの自分にとってクルマは、年に数回必要な時に借りて目的地へ向かうための道具でしかない。でも今日はどうしても佐野元春のニュー・アルバムをクルマで聴きたかった。ひとりきりで、まるで昔のように。
 この新作『今、何処』が届いてから、家で何度となく聴いた。そのたびに圧倒され、思考が飛び、ただ黙り込むばかりだった。まるでその感動の分析を、脳が拒絶しているかのように。

 自分にはこのアルバムに言葉を捧げる力がない。そんな想いを拭えないままハンドルを握った。幻想的なオープニングから、強靱なシャッフル・ビートと共に『さよならメランコリア』が流れ出す。

 「イエスかノーか どっちでもなく 白か黒か 決まんないまま なんとなくHAPPY なんとなくBLUE」あぁ、これはまるでオレだ。心が疼きだす。

 「今までなんとなくやってきた 死なないようにがんばった でも最近みんな気づいてきた 過去はあてにできないって 目の当たりに見た」この言葉を脳内で受け取った瞬間、どこかで獣の咆哮が聞こえたような気がした。

 数秒後、それが自分の唇から放たれた音だと気づいた。激しく動揺しながら、あわててクルマを路肩に寄せる。そして続く「銀の月」が終わるまで、大声で泣いた。無意識に抑えつけていた何かが溢れる。そしてそれを冷静に無表情で見つめる自分が同時にいた。心がふたつに切り裂かれていた。

 まったく想像もしなかったCOVIDの時代。しかし佐野元春は歩みを止めなかった。そのタフな軌跡は一足先に配信された前向きなポップ・アルバム『ENTERTAINMENT!』に刻み込まれている。

 一方、自分は口をつぐみ、ただ必死に生きるばかりだった。50歳を前に初めて授かった息子を、そして家族を守ることだけを考えていた。時の流れが加速し、1年が体感8ヶ月くらいで過ぎてゆく。時代と共に何もかもが大きく変わった。様々な物事に心を削られ、歌うべき情熱を見失っていた。

 モノラル・シンセのシーケンスが響き『銀の月』がフェイドアウトしてゆく。佐野元春と最後に逢った時「いまMoogのシンセにハマっているんだ」と嬉しそうに話してくれたことを思い出す。アルバムのMoogはすべて自分で弾いたそうだ。その新たな試みが強烈に新鮮な成果を上げている。冷静さをたぐり寄せながら、そんなことを考えていた。

 景色を変えてくれたのは、軽やかなクラビネットの音色を伴った『クロエ』だ。音楽的な歓喜が心になだれ込む。「時はため息の中に止まる」この言葉を乗せた物憂げで甘美なメロディーの響きは、初めての佐野元春だ。これまでのどの曲とも違う。そしてそれを彼のシグネチャーともいえるシンセ・フレーズが迎え受ける快感。これぞ完璧なシティ・ポップにして、ロックンロールだ。

 佐野元春のニュー・アルバムが出るたびに、爆音で聴きながらドライブしたあの頃。忘れかけていた感覚に心が震える。

 『斜陽』で歌われた「下り坂」そこに自分も差しかかっているのだろう。すべては無常、すべてが変わりゆく。そしてある日突然、死が襟首を掴むかもしれない。自分はこの魂を無駄にしていないか?喉元に熱いものがこみ上げてくる。

 甘くせつなくやるせなく『冬の雑踏』が流れ出した。このスピリチュアルなR&Bポップは、まるでThe Chi-LitesとAl Kooperが東京の街で出逢ったかのようだ。40年を超えるキャリアの中でも指折りの名曲がここに生まれている。今年66歳を迎えたミュージシャンが、こんなにもみずみずしいキラー・チューンを放つなんて。それを軽々とやってのけるのが佐野元春だとわかっていても、打ちのめされてしまう。

 「誰もがいま 誰かのことを想ってる 誰かがきっと 誰かのために祈ってる」この美しい旋律に寄り添うオクターブのハーモニー、かつてのバンド仲間、そしてかつての親友、高桑圭が奏でる素晴らしいベース・ラインに、心が空高く舞い上がる。圭と出会わなかったら、いまの自分はいない。感謝で胸がいっぱいになった。小さな声で祈る。幸せと哀しみの感情が踊る。

 『君の宙』のエンディングに40年前、レコードが擦り切れるほど聴いた『麗しのドンナ・アンナ』の幻影を見た。かつて心を打たれたフレーズ「いつだって誰もが誰かに 胸しめつけられて Crying in the Rain」が、続く『水のように』にその形を変えて現れる衝撃、13歳の自分と53歳の自分が交差する。

 ロックンロールの歴史を受け継ぎながら、時代の音と遜色ない重心の低さを合わせ持ったサウンド、そして洗練されていながら、今どきのフュージョン的な要素をいっさい排除したメロウネス。2022年のロック・バンドとして佐野元春 & THE COYOTE BANDはここに頂点を極めている。

 エクスペリメンタルな終曲『今、何処』のシンセ・ループが、心のどこかでThe Who、そして40年前に観た映画「さらば青春の光」のラスト・シーンへと繋がり、そこでロジャー・ダルトリーが歌った「You stop dancing」という言葉に辿りつく。

 この先に厳しい時代が待ち受けているかもしれない。それでも最期の時まで自分は踊り続けたい。まだ間に合うと信じて、もういちどやり直そう。佐野元春の最新にして最高傑作『今、何処』から与えられた、悲観に抗う力をもって。