佐野元春『今、何処』

評論 ─ 佐野元春 & ザ・コヨーテバンド『今、何処』『今、何処(Where Are You Now)』と『ENTERTAINMENT!』を巡るテキスト

卓越しても円熟はせず

齊藤鉄平

 プリミティブなロックンロールが躍動した前作『ENTERTAINMENT!』が焚き付けた、コロナウィルスですら黙らせることができない⼈間の奥底に眠る熱情。あの作品から受け取った「お前こそがこの街の、この世界の主役なんだ」というメッセージは紛れもなく本物だ。しかしアルバムが終わりヘッドホンを外した瞬間、次々と襲いかかってくる陰鬱なニュースに、この熱をどうやって守っていけばいいのだろうと途⽅に暮れてしまう⾃分がいる。猛威を振るうウィルス、常軌を逸した富の集中と格差の拡⼤、そして復活した帝国主義の亡霊。私たちが⽣きる社会は、かつてない混沌の中にある。

 佐野元春は⼀貫して、その時代にしか書けないリアルなメッセージを、時代が変わっても⾊褪せない⾔葉で書き残してきたソングライターである。新作『今、何処』においても、現代社会を⾒つめる眼差しは鋭く、深い。氾濫するフェイクニュースによって猜疑⼼に苛まされ傷つけ合う者たち。権⼒者に与えられた⾒せかけの⾃由の中で孤独を癒せずにいる者たち。信じていた規範やシステムが失われていくことに困惑する者たち。本作で描かれた舞台の多くは、2022年の世界を反映するかのように、決して楽観的なものではない。

 しかしこのアルバムは、こうした⽬の前に広がる困難に囚われることなく、私たちには⾃由を感じ取り、前を向いて⽣きていく⼒があることを伝えてくれる作品だ。その核を成す要素の⼀つはなんといっても、2007年発表のアルバム『COYOTE』以来、6作⽬のコラボレーションとなるザ・コヨーテバンドのダイナミックな演奏にある。古くからの佐野元春ファンにとっては新進気鋭の、しかしポップミュージックの本格的な⼊⼝がGREAT3やプレイグスであった私の世代から⾒るとヒーロー級のミュージシャンが集ったスーパーバンド。彼らと佐野元春のスタジオワークが今作において新たな次元に到達していることは、冒頭を飾る「さよならメロンコリア」のイントロから鳴り響くギター、ベース、ドラムとオルガンが⼀体となった咆哮、そして続く「銀の⽉」のロマンチシズムが疾⾛していくようなアレンジを聴けばすぐに分かるはずだ。卓越しても円熟はせず、アリーナ級の迫⼒とライブハウスの⽣々しい衝動を同時に感じさせる唯⼀無⼆のグルーヴ。例えばサニーデイ・サービス、家主、台⾵クラブといったインディーシーンの最前線にいるロックバンドたちと、彼らとは桁違いの場数を踏んできた佐野元春の新作を同じ感覚で聴くことができるのは、プロフェッショナルでありながらも、バンドメンバーそれぞれの息遣いが感じられるようなパフォーマンスゆえだろう。「⽔のように」を聴いた後に湧いてくる温かい感情は、⼒強い演奏とコーラスの向こう側に、佐野とザ・コヨーテバンドがリスナーと共に育んできた深い信頼関係を感じ取ることができるからこそである。

 そしてこの作品に特別な⼒をもたらすもう⼀つの要素は、私たちが置かれた苦境に深いシンパシーを寄せながら、それを時に鮮やかに反転させ、時に⼒強く押し返す佐野元春のリリックにある。「さよならメランコリア」ではこれまでにないほどの直截的な⾔葉を⽤いて、「⼤⼈のくせに」ではユーモアと挑発も交え、そして「君の宙」では⼈間の無⼒感に深く⼊りこみながら、佐野は繰り返し訴える。たとえシステムを変えることができなくても、沈んでいく世界を救うことができなくても、最後に⼈間の中に残るもの、つまり魂だけは守り続けてほしい、絶対に守ることができるから、と。そしてこの普遍的なメッセージが、まるで私だけに語りかけられているような親密さと切実さをはらむのは、作詞家としての表現⼒はもちろんのこと、ソロアーティストとして未到のキャリアを拓いてきた彼⾃⾝が、今もなおファンにとって、あるいは⾳楽シーン全体にとって、⼤きな意味と価値がある新作を⽴て続けに⼆作も届けてくれたという事実に拠る。これだけのエネルギーを放つ⼈が⾔うならば、本気で信じてみてもいいのではないか、もう⼀度前を向けるのではないか。もう⼗分に現実というものを知った⼤⼈である私たちの⼼を、理屈では測ることのできない⼒で奮い⽴たせてくるのである。

 『SOMEDAY』や『VISITORS』の衝撃にはリアルタイムで⽴ち会うことができなかった私だが、『今、何処』という新たなマスターピースの誕⽣には間に合った。⼩さなライブハウスに通う、まだ佐野元春を体験したことのない世代にこそ、『ENTERTAINMENT!』と合わせて聴いてほしい作品だ。