佐野元春『今、何処』

評論 ─ 佐野元春 & ザ・コヨーテバンド『今、何処』『今、何処(Where Are You Now)』と『ENTERTAINMENT!』を巡るテキスト

新しい世界で道に迷ってしまわないために

宇野維正

 米中貿易摩擦やロシアのウクライナ侵攻がもたらした、ベルリンの壁崩壊以来の世界情勢の大きな転換。カーボンニュートラルに邁進していた西側諸国に突きつけられた、目前の資源問題とエネルギー危機。NetflixやSpotifyの株価暴落やイーロン・マスクのTwitter買収騒動で表出した、一部の私企業や起業家に握られたカルチャーインフラや極端に偏った富の問題。ようやくパンデミック期が明けたと思ったら、世界はこれまでとまったく違った様相を見せている。

 日本の音楽シーンにおいて長年、稀代のビジョナリーとして活動し続けてきた佐野元春といえども、もちろんそれらを正確に予期していたわけではないだろう。しかし、あの陰鬱としたパンデミック期にリスナーの魂を鼓舞した名曲たちを軸に編まれた前作『ENTERTAINMENT!』からたった3ヶ月というインターバル(言うまでもなく、佐野元春のオリジナルアルバムのインターバルとしては過去最短だ)で本作『今、何処』が届けられた意味に、改めて想いを巡らさずにはいられない。2020年代の始まりとともに世界を覆ったパンデミックをきっかけに、カルチャーだけでなく社会全体に変化の時代がやってくることを覚悟していた人は多いだろう。しかし、これほどクリアな思考で「パンデミック期の世界」と「パンデミック以降の世界」を切り分けて、そのどちらもエモーショナルにキャプチャーしてみせた表現者を、自分は佐野元春以外に知らない。

 佐野元春のリリックが刺激的で、具体的で、時に社会への挑発を含んだものであることは今に始まったことではないが、それにしても『今、何処』ほど鋭利な角度で発せられた言葉が心に突き刺さるアルバムは久しくなかったのではないか。《少しづつ沈んでくネイション /それはまるでサイエンスフィクション》(「さよならメランコリア」)、《今夜もまた/電卓はじいて笑ってる/特権階級気取った連中が/朝まで踊ってる/この植民地の夜》(「植民地の夜」)、《ゆっくり/この下り坂を/降りて行こう/ゆき着くところまで》(「斜陽」)、《国を守れる/ほどの力はないよ/命を預ける/ほどの武器もない》(「君の宙」)、《残酷な分裂/巧妙な略奪/静かな検閲/魂の抑圧》(「永遠のコメディ」)。引用していけばキリがないが、それらの言葉はまさにこの時代に日々の生活を営み、《右によれたり/左にぶれたり》しながら途方に暮れている我々の現在地を言い当てている。

 しかし、最近よく思うのだ。第二次世界大戦直後の混乱は遠い昔で、生まれた時にはビートルズも解散していて、ベルリンの壁崩壊もバブル経済も社会に出る前の遠い世界の出来事だった自分にとって、ようやくリアルに体験する本当の変化の時代、本当のSTRANGE DAYSが『今、何処』ならぬ「今、此処」なのではないかと。もちろん、変化は必ずしも「良きもの」ではなく、往々にして「悪しきもの」にもなり得るわけだが。

 先に挙げた「さよならメランコリア」のリリックはこう続く。《今/望むことはたったひとつ/身近な未来越えた/永遠のレボリューション》。「斜陽」のリリックはこう続く。《でもひとつだけ/約束してほしい/君の魂/無駄にしないでくれ》。本作の本編(と言っていいだろう)最後の曲が、《それはただの理想だと人はいう/でも理想がなければ/人は落ちてゆく/それはただの希望だと人はいう/でも希望がなければ/人は死んでゆく》と歌う「明日の誓い」であることは重要だろう。それは「誓い」というより、佐野元春の「祈り」だと自分は受け取った。

 いつだって佐野元春の音楽は都市生活者の音楽だった。佐野元春の音楽を聴きながら、自分は都市で成長して、本を読んで、恋をして、結婚をして、子供を育て、今もまだ都市に住んでいる。最近、東京の街を歩いていても、大阪の街を歩いていても、ますます雑多な路地が消えて、綺麗に土地が一つにまとめられて、そこに巨大な高層ビルがそびえ立つようになったことに気づかされる。その変化のスピードは、遠い記憶の向こうのバブル期をも確実に凌駕している。そして、駅前の一等地にあるそうした真新しいビルの中層階以上の多くは、オフィスではなく新しい都市生活者のための住居となっている。やっぱり、世界はこれまでとまったく違った様相を見せている。そんな新しい街で、新しい世界で、道に迷ってしまわないために、『今、何処』を繰り返し聴いている。