〈そう、ぶち上げろ魂 君の魂〉(「さよならメランコリア」)。まったくなんてリリックだ。シンプルだが聡明な凄みすら感じるアジテーションにまさしく魂がぶち上がる。
「状況に言葉を与えること。良きシンガーソングライターとは良き観察者であることだと僕は思う」。近年、筆者が行ったインタビューにおいて彼は何度かこう語っていた。周知の通り、実際、佐野元春とはこれまでもそうしたソングライティングを実践し続けてきた人物だが、この『今、何処』では、改めてこの時代の状況=現状に対してこれまで以上に的確かつ痛烈な言葉を与えることで、極めて明確な詩世界のディテールとメッセージをリスナーに提示している。
それはそうだろう。これまでも時事に反応して即座にアクションを起こしてきた佐野のキャリアを振り返れば振り返るほど納得がいく。2020年、世界は抜き差しならない状況に陥り、多くの命が失われ、この国の体制に根ざした多くの欺瞞や怠慢が炙り出されたのだから。
今作における佐野の観察者としての姿勢は冒頭から具体的だ。SEから始まるアルバムと言えば『Sweet16』が思い出されるが、プロローグとしての「OPENING」を経て鳴らされる「さよならメランコリア」では〈死なないようにがんばってきた〉〈過去はあてにできないって〉〈なんとなく生きて/なんとなく死んで/そんな夜は虚しい〉といった思わず頷いてしまうフレーズの連鎖から〈そう、ぶち上げろ魂 君の魂〉と訴えかけ、〈勇気出して真新しい世界へ〉〈まにあいますように/まだまにあいますように〉という祈りのようなくだりへと続いていく。
観察者としての佐野の姿勢は、続く「銀の月」でも「植民地の夜」でも「エデンの海」でも「永遠のコメディ」でも「大人のくせに」でも堅牢に貫かれている。いずれも、いまこの時代と切っても切り離せない物語の歌だ。
『今、何処』の楽曲は例外なく多分にエッジィな表現を内包しながらも達観と諦観の筆致が極めてしなやかだ。「クロエ」におけるロマンチシズムもまたピュアネスというよりは一定の距離を置いた視点から描かれているし、それぞれの曲のタイトルもまた然り。例えば「銀の月」の〈日は暮れて/君は少し泣いた〉、そして同様に〈日は暮れて/君は少し笑った〉や「水のように」の〈その日まで/元気で〉というくだりは佐野だからこそのメロディセンスによって言葉の叙情が増幅された好例として明快だ。リリックとメロディの親和性からも、6作目を迎えたザ・コヨーテ・バンドによる的を射たアレンジからも「匠」と形容したくなる所作が感じられる。
コンセプチュアルな統一性と佐野独自のドラマツルギーが感じられる『今、何処』は12曲で編まれた一遍の物語のようにも聴こえる。それは無常の時代における〈魂〉の所在とそのあるべき姿の考察についての物語だ。
実際、〈魂〉という言葉は「さよならメランコリア」、願いのようなメッセージにも似た「斜陽」、移ろう時代のなかで変わっていく今はいない〈君〉に宛てたレクイエムのような「冬の雑踏」と繰り返し用いられている。特に「斜陽」における〈でもひとつだけ約束してほしい/君の魂/無駄にしないでくれ〉というフレーズは、佐野からリスナーに向けた切実な願いではなかろうか。そして「水のように」からはこの時代を生きていくための心得を。さらに「君の宙」「明日の誓い」からは(あまり軽々しく使いたくはない言葉だけれど) 勇気を享受せずにはいられない。
今年3月に上梓された『ザ・ソングライターズ』(スイッチ・パブリッシング刊)における“あとがき”の役割を担ったモノローグのなかで、佐野は「良い歌詞とはどんなものか」を考察する上で自身が基準とする9つの視点を挙げている。項目のみを引用すると“他者への優しいまなざしがあるか”、“生存への意識があるか”、“言葉に内在するビート(韻律)に自覚的かどうか”、“文字で読んだ時にポエトリーとして成立しているかどうか”、“自己憐憫でないか”、“普遍性があるか”、“音と言葉に継ぎ目のない連続性があるか”、“共感を集めることに自覚的か”、そして“良いユーモアのセンスがあるか”である。発言は2012年のものだが、これら全ての視点を圧倒的な筆致と詩情と説得力で体現している2022年の佐野のソングライティングは、いま確実に何度目かのピークにある。
アルバムのラストに置かれたタイトルトラック「今、何処」で佐野は同時代を生きる者たちにその所在を問いかける。それは同時に亡者と未来を生きる者へ向けた電信のようにも受け取れる。
『今、何処』は佐野元春という観察者による混迷の2020年代のログである。果たして3年後、5年後、10年後、私たちは(仮に生きているとしたら)どんな時代の状況下でこのアルバムを聴き、何を思うのか。その時、佐野にも元気でいてほしいし、自分もそう在りたい。それもまた『今、何処』から得た生へのモチベーションだ。まったくもって楽観視はできないが、腐っていてもはじまらない。いまはともかく『今、何処』の勇気を胸に、美しい魂の在り方を思い巡らせながら今日を生きたい。